仏教のお話

仏教を西洋人は、宗教というより哲学に近いと言います。

 

日本ではお葬式に、お坊さんを呼んでお経をあげてもらったりするので、宗教という側面が強いように思いますが、西洋人は、お葬式は、だいたいキリスト教なので、仏教というと哲学的な思想を思い浮かべるようです。

 

 

 

今回は、ブッダが説いた「無分別智」(むふんべつち)のお話をしようと思います。

 

無分別智と言っても、ご存知の方は少ないかと思います。

 

これは、ものの見方を少し変える知恵のことです。

 

 

まずは、「花」を思い浮かべてくださいと言われたら、何を連想しますか?

 

普通の人は、「花」と言うと、花びらの付いた頭の部分を連想するのではないでしょうか。

 

だけど、自然の花は花びらだけではないはずです。

 

花びらには、茎も付いているはずです。

 

そして、葉っぱもあれば、根っこもあります。

 

もっと、言うと、根っこは大地と繋がっていて、水や養分を吸い上げています。

 

葉っぱは、太陽の光を浴びて光合成をして、空気中の二酸化炭素を吸って酸素を出します。

 

つまり、花だけでは、存在する事が出来ず、必ず世界と何処かで、繋がっているのです。

 

この繋がりをブッダは「縁」と言います。

 

生きている「花」は「縁」と切り離して説明する事の出来ない存在で、自然の世界の一部であり、繋がった存在だというわけです。

 

 

 

 

人間は、分析が好きです。

 

分析とは、細かく分けて考える事です。

 

「分かる」も、「解る」も、「判る」も、切って物を細かくするという漢字の意味があります。

 

「刀」で「八」つに「分」けるわけです。

 

「花」も、花びらや、茎や、葉っぱや、根っこに分けて考えると、それが何であるのか分かるという事です。

 

その為、人は分かれたものに、固有名詞を付けて認識する癖が付きました。

 

「花」というと、花びらしか連想できません。

 

まるで、言葉だけが独り歩きして、それだけで存在出来ている気持ちになります。

 

だけど、ブッダは、それでは本当の世界が分からないと言いました。

 

ここで、「無分別智」です。

 

何も分けない、ものの見方です。

 

花も、そこに存在しているように見えますが、それは「仮の姿」で、時には、枯れて土に返ります。

 

花の蜜を吸っていた蝶々も「仮の姿」です。

 

蛙が食べて、蛙の体の一部となって、姿が変わってしまうかもしれません。

 

その蛙もそうです。

 

いつまでも、そこにいるとは限りません。

 

歳をとって、死んでしまうと虫や、細菌や、植物の食料となり、他の生き物の一部となります。

 

そういった存在を、ブッダは「空」と言います。

 

そこに、存在はしているのだけれど、一時的なもので永遠の存在ではないもののことです。

 

花も、木も、昆虫も、動物も、空や、川や、海や、大地も、自然界の全てのものが、分けることの出来ない大きな一つの存在であり、このことに、気付く知恵のことを「無分別智」と言います。

 

我々は、分けて世界を認識していて、それが本当の姿だと思っていますが、実は世界は分けることの出来ないもので、宇宙が一つの存在であり、私たちは宇宙の一部だということです。

 

これを「一如」、または、「真如」と言います。

 

 

 

今の科学で言うと、世界は「原子」で出来ています。

 

大地の「原子」と、花の「原子」が、たまたま、そこに繋がっているだけで、何かの要因で形はすぐに変わります。

 

形が変わっても、「原子」の数は減りません。

 

これは、「無分別智」の世界そのものです。

 

科学の世界も、仏教の世界も共通しています。

 

分かれていると思うのは、人間の勝手な妄想で、全てが、一体となった一つの世界が真実の姿だとお釈迦さんが言うわけです。

 

仏教の核心的な教えです。