石舞台古墳

明日香の石舞台古墳です。

 

蘇我馬子の墓かもしれないと言われている古墳です。

 

蘇我馬子は、欽明天皇の息子である穴穂部皇子を暗殺し、物部守屋を殺し、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を即位させましたが、言うことを聞かなかったので、崇峻天皇も殺しました。

 

蘇我稲目から始まって、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と蘇我氏の時代が続きましたが、推古天皇の時代に政治を任されていた聖徳太子一族を蘇我入鹿が殺した事で悪人のレッテルを貼られて天智天皇と中臣鎌足にクーデターで殺されて蘇我氏の時代は終わりを迎えます。

 

橿原神宮(かしはらじんぐう)の畝傍山(うねびやま)は蘇我入鹿のお城があった山なので、天皇の歴史の始まりは蘇我氏が創ったとも言えそうです。

 

蘇我氏の残党の不満を躱す為か蘇我氏との関係が深かった天智天皇の母親の皇極天皇(こうぎょくてんのう)の兄の孝徳天皇(こうとくてんのう)が一度即位した後に、皇極天皇が即位する形になります。

 

蘇我氏の始祖は蘇我石川宿禰で300年生きたとされる武内宿禰の子供とされる伝説の人物で、その蘇我石川宿禰の子の蘇我満智(そがのまち)が古墳時代の始まりに当たる人物で今から1500年前の時代になります。

古墳時代の前が今から1800年前の弥生時代で女王卑弥呼の時代になります。

魏志倭人伝では女王卑弥呼の死後に男王が王位を継ぐが国が80年に渡って混乱して、壱與(いよ)、または台与(とよ)という女王が王位を継いだら国が治まったとされていて、男王とは誰かと歴史学者が考察されていますが現在、結論が出ていません。

 

私は弥生時代というと穴が開いた布の衣服を被り、裸足のような格好で藁の家に住んでいるイメージがありますが、弥生時代と古墳時代は隣り合わせの時代なので、そんなにかけ離れた文化ではなかったように思えます。

 

蘇我氏の歴史は改竄された可能性があるので、弥生時代から蘇我氏が日本に渡来して高度な文化を築いていた可能性を考えてしまいます。

 

おそらく、推古天皇の年代も聖徳太子の飛鳥時代ではなく、弥生時代だった可能性もあるのではないかと思います。

 

女王卑弥呼が推古天皇で、男王が蘇我馬子か、或いは蘇我入鹿です。

 

壱與は持統天皇、台与は奈良時代には元明天皇で、平安時代には再び皇極天皇が持ち上げられたのではないかと思います。

 

聖徳太子も実在しなくて、平安時代後期に奈良時代の称徳天皇(しょうとくてんのう)をモデルに藤原北家が創作して歴史に組み込み、藤原式家を中臣家(藤原鎌足)の傘下に収めて中国の西域の散楽(さんがく)にルーツを持つ猿楽や能、狂言などの伝統芸能を聖徳太子の右腕だった秦河勝と共に継承する役割を与えられたのだと思います。

 

天台宗の比叡山(ひえいざん)の日枝(ひえ)は猿の事です。

 

猿は藤原鎌足の象徴で、猿田彦大神として天細女(あめのうずめ)や、宇迦之御魂(うかのみたま)の配偶者となり、神功皇后(じんぐうこうごう)を補佐した武内宿禰として神話に組み込まれます。

 

聖徳太子について

中は、こんな感じでした。

 

男王のお墓の中なのかもしれません。

天井から光が差し込みます。

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