倫理のお話

芥川龍之介の「杜子春」という短編小説があります。

 

いろいろな出版社から出ていますが、筑摩書房の文庫本がおすすめです。

 

22ページ前後の短編小説なので、一瞬で読み終える事が出来る物語です。

 

名作中の名作ですので、ご存知の方も多いと思います。

 

もとは、中国の唐代の神仙小説の「杜子春伝」を題材にしています。

 

そこに、芥川龍之介らしい、オリジナルの「倫理」という味付けを施しています。

 

 

この物語は、唐の洛陽のお話になっています。

 

杜子春は、元は、金持ちの息子でした。

 

今は、財産を使い尽くして、いっそ死んでしまった方がましかも知れないと考えていた時に老人に出会います。

 

老人は、夕日の中に立って、杜子春の影が地に映ったら、その頭の部分を夜中に掘ってみるがいいと言います。

 

言われる通り夜中に掘ってみると、黄金が一山、出てきました。

 

この日より、彼は、洛陽一の大金持ちになります。

 

大金持ちになると、今まで、道で行き合っても挨拶さえしなかった友達などが彼を訪ねます。

 

飲めや、歌えのどんちゃん騒ぎで贅沢の限りを尽くしました。

 

だけど、三年目には財産を全て使い果たします。

 

彼が貧乏になった途端に、誰も、挨拶をしなくなります。

 

貧しい彼に宿を貸すどころか、一杯の水も恵んでくれないのです。

 

人はお金で動く人が多く、世間は冷たいという事です。

 

そして、途方に暮れていると、また、あの老人が現われます。

 

今度は、夕日にかざして、自分の影の胸の部分を掘れと言うのです。

 

言われるように掘ってみると、またもや金塊が出て、彼は次の日から、また、大金持ちになります。

 

去っていった友達も、また、戻って来ます。

 

全てが、昔のまんまです。

 

しかし、やっぱり、三年もたつと財産が尽き、誰もいなくなってしまいます。

 

彼は、人間に愛想を尽かします。

 

すると、また、例の老人が現われて、今度は腹の部分を掘れというのです。

 

杜子春は、老人に「もう、お金はいりません」

 

「あなたの弟子にしてもらいたいのです」と言います。

 

「私を一晩で、大金持ちにできたりするのは、あなたが、仙人だからじゃありませんか?」

 

こうして杜子春は仙人の下で修業する事になります。

 

仙人は、杜子春を絶壁の下に座らせて、自分が留守にしている間に、いろいろな魔性が現れてお前をたぶらかそうとするだろうが、決して声をだしてはならないと言います。

 

声を出したら仙人にはなれないというわけです。

 

杜子春は、「わかりました。命がなくなっても黙っています」と約束します。

 

仙人がいなくなってから、虎が現われたり、白い大蛇が現われたりします。

 

大雨になって、雷が、頭に落ちかかります。

 

それでも、黙っていると、今度は、大きな体の金の鎧を着た神将が現われ、三叉の矛をかざして「返事をしろ」と詰め寄ります。

 

杜子春は、仙人との約束を守って黙っていましたが、ついには、串刺しにされてしまいます。

 

杜子春の魂は、彼の体を抜け出して地獄の底に降りていきます。

 

地獄の底に着くと、そこには閻魔大王がいて、杜子春に質問します。

 

杜子春は、仙人との約束を守ろうと返事をしようとしません。

 

返事をしない杜子春に怒った閻魔大王は、彼に、地獄巡りの拷問ツアーを味あわせます。

 

針の山や、血の池や、灼熱地獄に、極寒地獄。

 

だけど、どんな拷問に掛けられて苦痛を受けようとも、杜子春は口を割りません。

 

さすがに、地獄の鬼達も、彼の強情さには呆れ返ってしまいました。

 

閻魔大王は、眉をひそめて、思案していましたが、やがて、何かを思いついたと見えて、「この男の父母は、畜生道に落ちているはずだから、ここに連れて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。

 

そして、二匹の獣が、連れて来られます。

 

形は見すぼらしい馬ですが、顔は、死んだ父母の通りでした。

 

「こら、白状しなければ、その方の父母を、痛い目にあわせるぞ!」

 

そう言われても、杜子春は、黙っていました。

 

「この不孝者めが、打て。肉も、骨も、打ち砕いてしまえ!」と鬼どもは、一斉に、鉄の鞭で二匹の馬を打ちのめします。

 

肉が裂け、目には、血の涙を浮かべて、苦しそうに身を悶えて、息も絶え絶えに倒れ伏しました。

 

杜子春は、それでも、黙っていました。

 

その時、彼の耳には、ほとんど声とはいえないくらい、かすかな声が伝わって来ます。

 

「心配おしでない。私たちは、どうなっても、お前さえ幸せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が、何とおっしゃっても言いたくないことは黙っておいで」

 

それは、確かに懐かしい、母親の声に違いありません。

 

杜子春は思わず、眼をあけました。

 

そして、馬の一匹が、地上に倒れたまま、悲しそうにこちらへ、じっと眼をやっているのを見ました。

 

世間との冷たさとは正反対の温かい優しさです。

 

杜子春は、仙人の約束を忘れて転ぶように、その側へ走りよると、半死の馬の首を抱いて、はらはらと涙を落としながら、「お母さん!」と一声、叫びました。

 

杜子春は約束を破りました。

 

しかし、仙人は「もし、お前があの時に声を出していなければ、お前を殺していただろう」と言います。

 

これは声を出した事で仙人から叱られる「杜子春伝」とは違う結末で、芥川龍之介流の儒教の解釈です。

 

声を出したのは「失敗」ではなく、「美徳」なのです。

 

芥川龍之介の杜子春では、仙人にはなる事が出来ませんでしたが、仙人から小さな民家を与えられ、細々と、幸せな人生をおくったと締めくくられます。

 

特別な能力などなくても幸せである事に気が付いたわけです。

 

孔子は「怪力乱神(かいりょくらんしん)を語らず」と言いました。

 

奇怪な事、勇力な事、人の道を乱す事、鬼神の事を語らないという事です。

 

人間は不思議なものに憧れ、特別なものに惹かれます。

 

家で飼っている鶏を嫌って、野生の雉を好む「家鶏野雉」(かけいやち)という諺もあります。

 

だけど、本当に尊いものは身近にあって当たり前のものなのです。

 

それを、この物語は道教の神様や仏教の閻魔大王などを使って杜子春に悟らせるわけです。

 

私は、「倫理」という言葉を聞くと、ふと、この杜子春の物語が頭に浮かんでしまいます。

 

人間、一人一人が持っている良心である「仁」(じん)です。

 

人への思いやり、温もりです。