司馬遼太郎の「俄-浪華遊侠伝」という講談社文庫の本があります。
この本が、すごいんです。
大阪生まれの、明石屋万吉という人が主人公で、日本一の侠客と言われた波乱万丈な人生が描かれています。
侠客とは、司法権を付与されていない町の相談役みたいなもので、博打(ばくち)を常習とする世間からのはみ出し者などの面倒を見ていた極道の元祖のような存在です。
この主人公は、もともと、大阪平野町の堺筋角の茨木屋という豪商で、丁稚奉公していて、番頭から「いくら、どつきまわしても、痛がりよらへん」と言われていました。
彼は、11歳の時に、この茨木屋を勘当してもらい、一人で生きていく為に命を捨てる覚悟を決めます。
それからが、苦痛の連続です。
読んでいても、重苦しい雰囲気になるぐらい、苦痛!苦痛!苦痛!で、息を止めて読まないと耐えられないような物語です。
だけど、この主人公は、弱音を吐きません。
耐え続けるのです。
あっぱれです。
大阪の市民が、苦しんでいた米の高相場をぶっ潰した時も、奉行所に捕らえられ、あらゆる拷問に掛けられます。
だけど、口を割りません。
ソロバンの上に座らされ、膝に石の板を積み上げられたり、蝦責めという、ほとんどの人が絶命してしまうような拷問に掛けられたりもします。
無茶苦茶です。
だけど、どんな苦痛にも耐えるのです。
この物語の途中に、刺青をいれた人が出てきます。
刺青の事を、浪華では「彫りもの」とは言わず、「ガマン」というそうです。
本の中で一針、一針、皮膚に刺しながら描いていくのだから、その痛みは、地獄の針山で柔術でもとらされるほどに痛いと表現されています。
だから、「ガマン」だそうです。
この「ガマン」の出来ぐあいで男を競うそうです。
この主人公は、苦しみを耐え抜いて生きていますが、他人には情を忘れません。
必ず、助けてあげます。
なんの見返りもなく、自分の身が危なくなってもです。
また、頼みごとをしてくる人も、必ず助けてあげます。
無償で助けてあげます。
すると、不思議な事に、主人公が危機に陥った時に、そういう人達が助けてくれます。
そして、どんどん、子分が増えていきます。
彼は、子分の前で、刀を抜き、「どや、この刀で、無意味に死ねるやつがあるか。意味もなく平気で殺され、成仏もできず、無縁仏になってもかまわんというやつがあるか」と、問います。
ほとんどの人が、意味を聞き返します。
万吉は、一喝します。
話を聞いてからじゃないと死ねないというのは、
漢(おとこ)ではない。
だまって、無意味に死ねるかと聞いている。
すると、ほとんどの人が、彼の前を去っていきます。
無意味な死ほど馬鹿らしいものはないからです。
人は殺せても、自分は殺せないのです。
それが、普通の人です。
命がおしいのです。
この明石屋万吉の求めているものには、凄味があります。
でも、出来れば彼のような人生は歩みたくありません。
彼の十分の一でも、忍耐力があれば、どんな茨の道でも突き進んでいけるでしょう。
こんな、小説はなかなかありません。
極道とは半端ではなく、極めた道なのです。