陽明学のお話

 

 

司馬遼太郎の「峠」(とうげ)という本が、新潮社から出ています。

 

主人公は、越後長岡藩(えちごながおかはん)の河井継之助(かわいつぎのすけ)という人です。

 

薩摩藩、長州藩は、幕末に「尊王攘夷」(そんのうじょうい)という思想を盾に立ち上がりました。

 

幕府を倒して、近代国家を創ろうというのです。

 

そして、薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち)という人が、工作をし、天朝を味方につけて官軍になります。

 

時代の波は、幕府ではなく、薩摩藩、長州藩になっていました。

 

徳川家に恩を受けた譜代大名たちも、次々に、裏切り、寝返りました。

 

越後長岡藩も恩を受けた譜代大名ですが、七万四千石という小藩で、他の藩が「鯨」(くじら)だとすると、この藩は「メダカ」ぐらいの規模でした。

 

藩を生かす為には、裏切る方が得策でした。

 

だけど、河井継之助は裏切って、会津藩などの味方に対して銃を向けて、発砲する気にはなりませんでした。

 

だから、自分の心を貫いて、四十余藩と、軍艦七隻、陸兵輸送船二隻を敵にまわして、「メダカ」が「鯨」に戦いを挑みます。

 

司馬遼太郎は、彼を「サムライの典型」だと言いました。

 

彼は、早くから、サムライの時代が終わることを予言していました。

 

幕府が滅ぶことも分かっていました。

 

それなのに、あえて滅ぶ方の道を選択したのです。

 

何故か?

 

サムライの「痩せ我慢」です。

 

人として、裏切るという行為はしたくなかったのです。

 

「メダカ」の意地です。

 

 

 

後世の人の彼の評価も、真っ二つに別れます。

 

彼のお墓も、誰かに、粉々に砕かれたりされて、よほど憎んでいる人も多くいたようです。

 

何故、憎まれるのかというと「メダカ」が、「鯨」を相手に喧嘩をしたからです。

 

町人を巻き込む形となり、町が地獄と化したからです。

 

彼一人の正義感の為に、市民が犠牲になったからです。

 

本当に弱い「メダカ」なら、一瞬で勝負がついて、周りの犠牲も少なかったはずです。

 

しかし、この「メダカ」は、かなり、手強かったのです。

 

 

 

彼は、ある意味で天才でした。

 

米を買い占めて、それを相場の高い函館で売ったり、銅を買い占めて、相場の高い新潟で売ったりして、お金を蓄え、そのお金で横浜の外国人商人から、最新式の兵器を次々に買い漁りました。

 

ガトリング砲という日本には、まだ無かった機関銃の前身ともいえる兵器を二つも揃え、最新式のミニエー銃を2000挺も装備させたのです。

 

当然、官軍も手こずり、両者には莫大な被害が生じました。

 

全ては河井継之助という天才、一人のために。

 

 

 

「峠」の話をしていると、肝心の陽明学(ようめいがく)の話が、出来なくなるので、この辺にしておきます。

 

河井継之助は陽明学を学んで、生涯、その生き方を貫きました。

 

陽明学とは、孔子や、孟子の系統で、王陽明(おうようめい)という人が立てた学問です。

 

朱子学も同じ系統でしたが、違うのは、朱子学が唯物論(ゆいぶつろん)的なのに対して、陽明学は、唯心論(ゆいしんろん)的でした。

 

朱子が「性即理」(せいそくり)だと主張したのに対して、王陽明は「心即理」(しんそくり)だと主張しました。

 

「性」(せい)は物事の本質であり、「心」(しん)の中の「性」と「情」を切り離し、「情」を含まないものだと朱子は考えましたが、王陽明は「情」を含んだ「心」そのものが「天理」だと考えました。

 

「心」が、重要なのです。

 

陽明の言葉に、「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」というものがあります。

 

これは、敵よりも、自分の心の方が扱いが難しいという意味で、心は良心よりも、欲望に傾きやすいというわけです。

 

陽明は、若い時代に「禅」(ぜん)を学びました。

 

「禅」を学んだ経験から、心と、自然の法則は同じものだと考えます。

 

そして、陽明は、机上の学問を好みません。

 

行動して、経験を伴って、初めて知識は完成するのだと言います。

 

行動に移せないのは、本当に知っているのではないからだと言います。

 

これを「知行合一」(ちこうごういつ)と呼びます。

 

そして、人間の命も、自分の心が描いた人生を送る為の一つの道具にすぎないと言います。

 

重要なのは、ただ、生きるだけではなく、どう生きるかだと言うのです。

 

王陽明は孔子の弟子である孟子(もうし)の「性善説」(せいぜんせつ)の系譜に連なる人物です。

 

「性善説」とは、人間の生まれ持っての性質は善(良心)だというもので、孟子は良心に従って行動すれば徳のある「大人」(たいじん)となり、欲望に従って行動すれば徳の無い「小人」(しょうじん)となると考え、良心に従って行動する政治を推奨し、その政治を「王道政治」と呼びます。

 

この逆の欲望に従った政治を「覇道政治」(はどうせいじ)と呼んで区別します。

 

孟子の梁恵王章句(りょうけいおうしょうく)上篇の七章で斉(せい)の宣王(せんおう)に孟子が「王道」(おうどう)を説く話があります。

 

そこでは、「しない」と「出来ない」の違いをまず説明します。

 

王に「泰山(たいざん)という山を抱えて北海(ほっかい)という海を飛び越えてください」と言ったら「出来ない」と答えると思いますが、王に自分より身分の低い「お年寄りたちに按摩をしてあげてください」と言ったらどうでしょう?

 

やはり同じように「出来ない」と言われるんじゃないでしょうか?

 

この二つには大きな違いがあって、後者は「しない」であって、努力次第で「出来る」に変わる可能性を含んでいる「出来ない」だと孟子は説明します。

 

嫌な事でも努力して出来る人間が、「大人」(たいじん)だというわけです。

 

「王の王たらざるは、為(な)さざるなり、能(あた)わざるにあらざるなり」という名句です。

 

陽明は、この孟子の知識を行動に結び付けるための努力を更に発展させた学問を作り上げます。

 

そして、やみくもに知識を集めるのではなく、自分の目標に沿って学問することが大切だと言います。

 

目標は「志」(こころざし)を意味し、「志」がないことは「舵の無い船に乗るようなもの」だと王陽明は言います。

 

では、どのように「志」を立てれば良いのか?

 

孟子の滕文公章句(とうぶんこうしょうく)上篇では、「王も庶民と一緒に自ら田畑を耕して食べる事が望ましい」とする炎帝神農(えんていしんのう)の教えを奉ずる許行(きょこう)を師事し、儒学を捨てて「神農の道」(しんのうのみち)を学ぶようになった陳相(ちんしょう)という人物が、孟子に会って滕の文公が農民を食い物にしていると許行の学説を述べる場面があります。

 

孟子は陳相に尋ねます。

 

「許行は自分の食べる食料は自分で作るのですね?」

 

「はい」

 

「許行の被る冠は自分で織ったのですね?」

 

「いいえ。作った食料と交換します」

 

「許行は、何故、自分で織らないのですか?」

 

「田畑の仕事が忙しいからです」

 

「許行は飯を釜(かま)や甑(こしき)で炊いて、田畑は鍬(くわ)や鋤(すき)で耕すのですか?」

 

甑(こしき)とは甕(かめ)に似た器の底に穴が開いていて、これを湯沸しの上に重ねて湯気で米を蒸す道具の事です。

 

許行が、それらの道具を使っているのかと尋ねているわけです。

 

「はい。そうです」と陳相は答えます。

 

「その道具も自分で作っているのですね?」

 

「いいえ、違います。やはり食料と交換します」

 

孟子はここで、「冠や釜や甑、鍬、鋤などの道具を作っている人達も、別に農民を食い物にしているわけではなく、交換は相互に利益し合う事で良いことです。それなのに許行は何でも自ら手を下してやらなければならないと言われます」

 

「それならば、許行も陶工や鍛冶屋の仕事もするべきではないのですか?」と疑問をぶつけます。

 

陳相は「耕作をしながら、片手間に職工の仕事を行うのは出来ないからだ」と言い訳をします。

 

これに対して孟子は「それならば、政治だけが耕作をしながら片手間に出来るというのですか?そんな馬鹿な話はないでしょう」と矛盾点を突きます。

 

「世の中には役割分担というものがあって、分業で社会は成り立っています」

 

「全ての人が全てに精通している必要はないのではないか」と孟子は言うのです。

 

王陽明も、孟子の考え方を引き継いでいます。

 

大工は、大工の知識に詳しければいいし、商人は、商人の知識に詳しければ他の知識はいりません。

 

侍には侍の、百姓には百姓の仕事があり、それを全うすれば人生は事が足りるというわけです。

 

余計な知識は、単なる娯楽にしかならないということです。

 

今の自分の仕事は何であるのか?

 

何をするべきなのか?

 

明治維新を起こす始まりとなった吉田松陰(よしだしょういん)を初め、幕末の志士達を突き動かした行動力の要因の一つに孟子や、陽明学などが挙げられます。

 

 

 

一生は、短いものです。

 

目標を持って、限りある命を、有意義に使わないと意味がないということです。