三大幸福論に、ラッセル、ヒルティ、アランの三人が、有名ですが、今回、アランの幸福論を紹介させていただこうと思います。
岩波文庫の神谷幹夫さん訳のアラン幸福論が、おすすめです。
みんな、幸福になりたいと思って生きています。
だけど、なかなか、幸福とは、何かが、イメージとして湧きません。
単に快楽や苦痛が、幸福の基準ではないと、アランは言っているように思います。
病気で、経済的に苦しい人でも、幸福を感じている人がいるかもしれません。
反対に、健康で、裕福な人でも、不幸と感じている人もいるかもしれません。
人、それぞれ、幸福というものは違うものです。
自分の幸福を考えるうえで参考になると思うので、アランの幸福論を機会があれば読んでみて下さい。
それでは、その内容ですが、アランは、幸福が自分の外に存在するもののようには考えていないようです。
物事が、うまく行ったから嬉しいのではなく、嬉しいからうまく行ったのだと考えるべきだと言います。
憂鬱な人間は、幸福は結果であって、原因ではないと考えます。
しかし、あなたが将来、幸福であるように思うとしたら、それは、どういうことか考えてほしいとアランは言います。
それは、今、あなたが、すでに幸福を持っているということです。
期待を抱くということ。
それは、つまり、幸福であるということなのだと、アランは言います。
今、現在を幸福だと考えられない人は、将来も幸福にはなりえないということです。
メーテルリンクの「青い鳥」も、結局、同じような意味あいなんだと私は思います。
それから、何を幸福というのかは、人によって違うのでしょうが、アランは、旅行を例えにして言います。
名所から名所へと急ぐ人たち。
見てきたところを人に言うためなら、これ以上の方法はあるまい。
しかし、それが、はたして自分の為になっているのかと。
目的地よりも、旅の過程を楽しむことが、旅の醍醐味と言えるように、幸福も同じだとアランは考えているようです。
生きるということに、目的地などは無いと考えるならば、ゆったりと旅の景色を楽しむように、人生も、一日、一日の風景を、ゆったりと楽しむことが幸福だというわけです。
そして、幸福を手に入れるためには、諦めないで努力することが必要なのだとアランは言います。
うさぎに逃げられた猟師の話では、猟師には、二種類の猟師がいて、幸福な猟師と、不幸な猟師があるのだとアランは言います。
不幸な猟師は、うさぎを捕まえられなかったことを嘆き悲しみ、幸福な猟師は、うさぎの狡猾さに感心し、次ぎは、どうすればいいのかを考え、それを楽しむ。
うさぎは、好き好んで、鍋に駆け込むわけでもないし、雲雀は焼き鳥になって落ちては来ません。
人間の味方をしてくれるのは、人間の営みだけだと言います。
棚からぼた餅のような幸福は、なかなか無いということです。
困難も、楽しみと取るか、悲しみと取るかは、気持ち次第なのだとアランは言っているようです。
それから、アランは、幸福になるためには人との接し方も重要だと考えていたようです。
礼儀正しさを学ぶのは、ダンスを学ぶのと同じで、ダンスの規則を学んでも、それは入り口にすぎず、ダンスを上手に踊るためには、相手に合わせることが必要だと。
他人に合わせることが出来ない人は、空気を読めない「K・Y」と言われる人達です。
結局、自己中なんでしょうね。
そういう、自己中で、幸福を感じれない憂鬱な人に言いたいことは、ただ一つだとアランは言います。
「遠くをごらんなさい」
自分のことなど考えずに、遠くを見るがいい。
仏教の煩悩も、自分に執着することからおこります。
自己中心に物事を考える人は、幸福から、もっとも遠いところにいるのだと、アランは言っているようです。
自分に拘るという気持ちは、命に係わる大切なものです。
しかし、それに執われすぎると、大切な自分を、結局は、不幸にしてしまうのだと、アランは考えているのでしょう。
天気が曇りの日でも、雲の向こうには、いつもと変わらない太陽があります。
曇りに惑わされず、太陽を、心に思って、いつも笑顔で他人と接したいものです。