愛のお話

芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の「奉教人の死」(ほうきょうにんのし)という短編小説があります。

 

奉教人(ほうきょうにん)とは近世初頭のキリスト教信者の呼び名です。

 

舞台は安土桃山時代の長崎です。

 

クリスマスの夜、「さんた・るちや」というキリスト教の寺院の戸口に、飢えた少年が倒れていました。

 

キリスト教徒たちは彼を介抱し、寺院で養うことになりました。

 

彼の名は「ろおれんぞ」と言い、その寺院で生活を始めると、キリスト教への信心の堅固さは、大人が舌を巻くほどになりました。

 

この「ろおれんぞ」は、同じ寺院の中で、「しめおん」と言う、身の丈が大きな剛力な少年と友達になります。

 

兄弟のような仲良しです。

 

「ろおれんぞ」は、顔かたちが玉のように清らかだったので、この二人は、鳩と、荒鷲のようだと言われました。

 

ある時、町方の傘張の娘と「ろおれんぞ」の仲が噂になります。

 

宣教師に呼び出され、事実かどうか、問いただされます。

 

彼は、「そのような事は、一向に存じません」と涙声で訴えます。

 

一応、この時は疑いが晴れるのですが、ある時、寺院の後ろの庭で「しめおん」が「ろおれんぞ」へ宛てた、娘の艶書を拾います。

 

そして、一人でいる「ろおれんぞ」の前に「しめおん」が拾った文を突きつけて、問いただします。

 

「ろおれんぞ」は、「娘は、私に心を寄せていたようですが、口をきいた事もありません」と答えます。

 

しかし、「しめおん」は、納得せず更に問いただすと、

 

「ろおれんぞ」は侘しげな眼で、じっと彼を見つめて、

 

「私は、お主にさえ、嘘をつきそうに見えますか」と、咎めるように言い放って、部屋を飛び出します。

 

「しめおん」も、疑り深かった自分を後悔して部屋を出て行こうとした時、駆け戻ってきた「ろおれんぞ」が、飛びつくように「しめおん」のうなじを抱くと、「私が悪かった。許してください」と囁いて、涙を隠して突きのけるように去っていきました。

 

 

それから、しばらくして、傘張の娘が身ごもり町は大騒ぎになります。

 

しかも、腹の子の父親は「ろおれんぞ」だと、彼女は父親に言いました。

 

傘張の翁は火のように怒って、宣教師に訴えます。

 

こうして、「ろおれんぞ」は姦淫の罪で寺院を破門にされ、追い出される事になります。

 

「しめおん」も欺かれたという怒りで、「ろおれんぞ」の顔を力任せに殴ります。

 

寺院を追い出された「ろおれんぞ」は、哀れな乞食になり、熱病にもかかり、道ばたで苦しい暮らしを続けていくことになります。

 

 

 

「ろおれんぞ」が破門されてから時がたち、傘張りの娘は女の子を出産しました。

 

 

 

 

そして、更に一年ばかりが過ぎたある日、一夜のうちに、長崎の町の半ばを焼き払う大火事が起こります。

 

傘張の翁の家は、運悪く炎に包まれます。

 

みんな逃げ出しましたが、翁の娘が産んだ女の子だけが家の中に取り残されてしまいます。

 

風が加わって、炎は一層、猛り狂います。

 

そこへ、多くの人を押しわけて、「しめおん」が現われます。

 

彼は、勇んで炎の中に飛び込もうとしましたが、あまりの火の勢いが強すぎて、どうする事も出来ませんでした。

 

翁と娘の前に行き、これも「神様の計らいの一つと思って、諦めた方がいい」と助言します。

 

 

 

と、その時、かたわらで「御主、助けたまえ」と叫ぶ声が聞こえます。

 

その声に、聞き覚えのあった「しめおん」が、声の主を見ると、まがいもない「ろおれんぞ」でした。

 

清らかに痩せ細った顔は、火の玉の光に赤く輝いて、風に乱れる黒髪も肩に余るように思われましたが、哀れにも美しい眉目のかたちは、一見して、それと分かりました。

 

その「ろおれんぞ」が、乞食の姿のまま目も離さず、燃え盛る家を眺めています。

 

と、その瞬間、彼の姿はまっしぐらに炎の中に入って行きました。

 

キリスト教徒たちは、彼の、その健気な振る舞いに驚きながらも、「親子の情は、争えぬ」と、罵りました。

 

傘張の娘は、地にひざまずいて、両手で顔を覆い祈り続けています。

 

 

 

しばらくして、「ろおれんぞ」が、両手に幼子を抱いて炎の中から姿を現しました。

 

その時です。

 

燃え尽きた梁の一つが、彼の頭上に落ちてきます。

 

「ろおれんぞ」は、必死の力を振り絞って、赤子を娘のもとへ放り投げます。

 

こうして、赤子は、無事に救出されますが、「ろおれんぞ」の姿は火の柱に隠れて見えなくなります。

 

「しめおん」は、「ろおれんぞ」を救おうとする一念から、火の嵐に、飛び込みます。

 

そして、焼けただれた「ろおれんぞ」を、「しめおん」が抱いて、火の中から出てきます。

 

 

そして、「ろおれんぞ」を寺院の門へ横たえます。

 

 

その時、傘張の娘が泣きながら、宣教師の足元にひざまづくと、「この女子は「ろおれんぞ」様の種ではありません。

 

まことは、私が家隣の男と密通してもうけた娘です」と、泣きながら思いもよらぬ懺悔をしました。

 

キリスト教徒たちは、息さえつかぬように声を呑みました。

 

娘が、涙をおさめて申し次いだのは、「彼に、恋い慕うていましたが、御信心の堅固さから、つれなくされて、恨む心も出てつい偽りを申してしまった」という事でした。

 

 

 

寺院の門に横たわった「ろおれんぞ」の焦げ破れた衣のひまから、二つの乳房が表われていました。

 

それを見つけた宣教師が、「ろおれんぞ」は女じゃ。

 

「ろおれんぞ」は女じゃ。

 

見られい、邪淫の戒を破った罪で、寺院を追われた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ女じゃと騒ぎます。

 

 

 

こうして、疑いが晴れた「ろおれんぞ」は、息絶えます。

 

 

 

その女の一生は、この他に、何一つ知りません。

 

だけど、それが、何事でありましょう。

 

なべて、人の世の尊さは何ものにも換えがたい刹那の感動にきわまるものです。

 

「ろおれんぞ」の最後を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではないでしょうかと締めくくられます。

 

彼女は、愛する人からの疑いも解けて、無事、天国へと旅立っていったのかもしれません。

 

 

 

 

キリスト教では、無償の愛を「アガペー」と言います。

 

赤子を救った行為は、まさに、これでしょう。

 

それと、この物語の本当の主題は「しめおん」に対しての「愛」の気持ちもあったのではないかと思います。

 

神様に仕える身なので、叶うことのない「愛」です。

 

それが、疑いをかけられても、女であることを隠していた本当の理由なのではないでしょうか。

 

ギリシャ哲学では大きく分けて「愛」は三つの形があるとされます。

 

一つは「母なる愛」の「アガペー」です。

 

もう一つは「友情の愛」の「フィリア」です。

 

これは「ろおれんぞ」と「しめおん」の二人が持っていた感情です。

 

そして、最後は「男女の愛」の「エロス」

 

「ろおれんぞ」が「しめおん」に対して密かに抱いていた感情です。

 

それが分かる場面が、姦淫の罪を「しめおん」に疑われた時です。

 

「ろおれんぞ」にとっては「しめおん」に疑われる事が一番つらくて、思わず「しめおん」に飛びついてうなじを抱いてしまった所です。

 

これは、「ろおれんぞ」が「しめおん」を異性として惹かれていた無意識の行動のように思います。

 

そうでなければ、芥川龍之介がこのような場面をわざわざ描写する必要性がないからです。

 

人間が種を残す為の本能に近い「愛」は、動物的で「俗」なものと捉えられやすいものですが、「命」を繋ぐ「愛」であり、そこには人間的な温か味があり、決して神様が否定するようなものではないように感じます。

 

しかし、キリスト教の時代になると聖職者は独身である方が好ましいという禁欲的な生き方が強調され、「エロス」は「性愛」などの卑猥な意味となり、快楽主義として「アガペー」の正反対の意味で使用されるようになります。

 

イエス様は聖母マリア様が一人で産んだ子供で、聖母マリア様にはナザレにヨセフと呼ばれる夫がいたのですが、ヨセフとイエス様には血の繋がりがなかったとされています。

 

ナザレとは聖別された人のナジル人の土地を意味し、イスラエルの祖であるヤコブが11番目の息子のヨセフにナザレ人となるようにと死の床で伝えた事が始まりとされます。

 

このヤコブの息子のヨセフと、聖母マリアの夫のヨセフは別人物だとされますが、ユダに銀貨で裏切られたりイエス様との共通点が存在する人物になります。

 

ヤコブの息子のヨセフは北イスラエル王国を築き、イスラエル十支族を束ねる人物で、「鹿」を意味するラケルの子であり、イスラエル十支族は歴史から豁然と姿を消した支族です。

 

私は縄文時代末期に日本に十部族を率いて渡来して、日本の最初の王となった饒速日命(にぎはやひのみこと)のルーツではないかと思います。

 

つまり、日本人はヨセフの子孫というわけです。

 

同じくヤコブの4番目の息子のユダは南ユダ王国を築き、ベニヤミン族とユダ族の二支族を束ねた人物で、「牛」を意味するレアの子であり「獅子」を意味する人物でした。

 

ダビデ王やユダヤ人のルーツになります。

 

聖母マリア様は、このユダ族の末裔だとされ、メシア(救世主)はダビデ王の末裔から生まれるとする律法学者の見解に沿う形となります。

 

映画「ナルニア国物語」でイエス様がアスランと呼ばれるライオンの姿で登場するのもこの為です。

 

聖母マリア様の夫ヨセフは、二人の間に性交渉がなかった事を強調するために、西洋絵画などでは生殖能力のない老人の姿として描かれる事が多く、「養父ヨセフ」と呼ばれる事が伝統的となります。

 

「実の父」として誤解を受けると信仰に多大な支障をきたす恐れがある為にキリスト教の世界においても「養父ヨセフ」に聖人の地位を贈る「列聖」(れっせい)には長い年月を要しました。

 

「養父ヨセフ」は聖人の地位にはなりましたが、キリスト教の世界では現在も「獅子」と「鹿」が切り離されて、まだ橋が架けられていない状態なのかもしれません。

 

 そして、イエス様は結婚もされず、子供もいないとされます。

 

男女の愛とは無縁で、より神秘的で崇高な存在の「聖」なるものとしてイエス様が神格化されます。

 

ルカによる福音書の6章12節から16節に登場するマグダラのマリアと同一視されるベタニアの女が「罪深い女」とされたのも、ペテロと後継者争いの末、政治的な思惑から、彼女は「エロス」と結び付けられて封印されたのではないかと私は思います。

 

イエス様が人間である事を明確に示そうとして、聖母マリア様の神聖性を認めなかったコンスタンチノープル総主教のネストリウスも異端とされ追放されます。

 

ネストリウス派のキリスト教徒は唐代の中国において景教(けいきょう)と呼ばれ、その子孫が「秦氏」(はたし)として日本に渡来する形となります。

 

全ては「エロス」と「アガペー」が切り離された結果と言えそうです。

 

男女が愛し合う事は、そんなに汚れたものなのでしょうか?

 

人が人を愛する心と、人が神様を愛する心には、そんなにも違いがあるものなのでしょうか?

 

この「奉教人の死」という作品は、そう読者に呼びかけているようにも感じます。

 

イエス様が教えようとした「愛」は人間的で温か味のあるものだと私は思います。

 

プロテスタントの牧師さんも妻帯は認められて、教会の権威からは切り離されていますが、その分、個人とキリスト教の接点として「聖書」が絶対視される傾向が強くなり、「聖書至上主義」(せいしょしじょうしゅぎ)や、「WASP」(ワスプ)などの人種差別などと結び付き、多宗教を廃絶する「原理主義」(げんりしゅぎ)を生み出す結果となりました。

 

イスラム教とキリスト教の対立の問題も、根本には「聖書」(イスラム教側はコーラン)を絶対視する事に要因があるように感じられます。

 

エルサレムに入城される時にイエス様が選んだのは「馬」ではなく「ロバ」であり、「教会」や「聖書」は、個人がキリスト教を知る上で、とても重要なものだとは思いますが、それ以上に「人間」そのものがイエス様の「愛」の対象だったのではないかと私は思います。

 

奇跡などの「不思議」な事に人間は憧れを抱くものですが、実は普通の「当たり前」の事の方が貴いものだと私は思います。

 

日本は、そういった意味で、「当たり前」が発展した素晴らしい国だと思います。

 

「エロス」は元々は「美を追求する愛」の意味であり、神様から人間に対する一方的な慈愛の「アガペー」に対して、「エロス」は人間が神様に捧げる献身的な愛を意味する言葉でした。

 

「ろおれんぞ」が神様に対して持っていた信仰心であり、「しめおん」に対して抱いていた気持ちと同じです。

 

卑猥な意味など微塵もなく、「アガペー」にも劣らない純粋で美しい「愛」です。

 

「ろおれんぞ」のどんなにも酷い仕打ちを受けようと、決して人を恨まない強い信念を持った姿に、読者はイエス・キリストの姿を重ね合わせてしまう事でしょう。

 

そして、健気にも「しめおん」に惹かれる人間的な弱さと、死も恐れない信仰心の強さの二面性を持った一人の女性の美しさがこの作品の魅力であり、この物語が芥川龍之介の切支丹ものの最高傑作だと言われている理由だと私は思います。

 

「愛」について、色々と考えさせられる作品です。

 

芥川龍之介の自殺前夜に脱稿された「続・西方の人」(ぞく・せいほうのひと)の11章「或時のクリスト(キリスト)」では、ヨハネの福音書に見られるイエス様が十字架にかかる前に弟子たちの足を洗った出来事が取り上げられています。

 

それは、謙遜を示したものであったが彼の弟子たちに教訓を与える為ではないと芥川龍之介は言います。

 

彼も彼等と変らない「人の子」だったことを感じた為におのづから云う所業をしたのであろうと推測されています。

 

汚い足をイエス様に洗ってもらう事に、最も抵抗したのが後にカトリックを生み、イエス様を「神」そのものにしたペテロです。

 

「私のしている事は、今、あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」とイエス様がペテロに言ったとされます。

 

ペテロの功績はキリスト教を世界に知らしめた事だと思います。

 

ペテロとはギリシャ語で「岩」を意味し、イエス様が「あなたは岩である。私はこの岩の上に教会を建てる」と言った事に由来すると言われます。

 

「人の子」とはダニエル書7章13節から14節に登場する「メシア」の称号で、新約聖書の各所に登場する言葉で、イエス様は好んでこの言葉を使用されて自分こそが「メシア」だと宣言されていました。

 

特別な能力を持たない「人の子」が、自分を犠牲にしてでも人を救おうとする「優しさ」に、人は美しさを感じ、この行為を人は「愛」と呼ぶのだと思います。

 

「メシア」とは「油を注がれた者」を意味し、預言者サムエルがサウル王に油を注いだ「聖別」の意味が一般的ですが、私はマグダラのマリアと同一人物だと思われるベタニアの女に香油を足に注がれた「人の子」が真意だと思います。

 

また、「続・西方の人」の15章「クリストの歎声(たんせい)」では、クリストは比喩を話した後、「どうしてお前たちはわからないか?」と弟子たちに真意が伝わらないもどかしさをイエス様が感じている様子が書かれています。

 

阿呆(アホ)たちは彼(キリスト)を殺した後、世界中に大きい寺院を建ててゐ(い)る。が、我々はそれ等の寺院にやはり彼の歎声を感ずるであら(ろ)う。

 

「どうしてお前たちはわからないか?」--

 

様々な比喩を駆使して沢山の作品を残した芥川龍之介が、読者に真意が伝わらないもどかしさをイエス様に重ねた最後の言葉だと私は思います。

 

芥川龍之介が伝えたかった事とは、「愛」とは何か?という問いに対する彼なりの答えだと私は思います。