キリスト教のお話

許すということ

 

遠藤周作の「私のイエス」という文庫本が、祥伝社から出ています。

 

世界三大宗教となった、キリスト教の魅力を、分かりやすく解説しています。

 

キリスト教は、ユダヤ教から、生まれました。

 

ユダヤ教では、神様と契約をかわした律法を重んじていました。

 

例えば、安息日(日曜日)は、仕事をしてはいけないという律法がありました。

 

医者も休みなので、病人は看病をしてもらえません。

 

ところが、イエス様は、律法を違反して看病したりします。

 

「律法の為に人があるのではなく、人の為に律法があるのだ」

 

とイエス様は言います。

 

他にも、娼婦、収税人など、律法に見棄てられた者や、律法を違反した者にも愛情を注ぎました。

 

姦通の罪で、イエスの前にある女性が連れて来られた時も、

 

「あなたがたの中で、罪のないものが、最初に石を投げなさい」

 

と言って、罪人を裁く資格が、誰にもない事を諭して助けたりします。

 

だけど、こうした行いが律法崇拝者からは疎まれ、律法違反の罪で、最後には十字架に架けられて処刑されるのです。

 

 

 

 

奇跡を起こす十二使徒

 

イエスには、十二人の弟子がいました。

 

彼らは、卑怯で臆病で、弱虫でした。

 

イエスが逮捕される時も、ユダを筆頭に十二人の弟子、全てが彼を裏切ります。

 

一番弟子で、後にカトリックを生み出すペテロでさえ、死の恐怖から3度「イエス様を知らない」と答えます。

 

それはイエスを見棄て否認することによって、弟子達は捕縛から免れ命を助けられたからです。

 

死が怖かったのです。

 

弟子達は裏切った自分達を、当然、イエス様は恨んでいるものだと思いました。

 

十字架で、きっと、自分達を呪う言葉を言うだろうと思いました。

 

 

しかし、結果は違いました。

 

「主よ、彼らを許したまえ。彼らは、そのなせることを知らざればなり」

 

このイエスの言葉に、弟子達は、驚愕と衝撃を受けました。

 

最後の最後まで、自分達を責めるどころか、彼は、弟子達の救いを神に願ったのです。

 

 

 

弟子達は、涙を流しました。

 

それからです。

 

 

卑怯で、臆病で、弱虫な弟子達が、死も恐れない戦士になったのは。

 

イエス様の教えを伝道する為に、火焙りにされても、逆さ十字架に架け

 

られても、あらゆる迫害に耐えて布教を続けました。

 

こうして、イエス様の教えは、弟子達によって、世界中に広まっていったのです。

 

 

 

話は変わりますが、ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」角川文庫も、おすすめです。

 

名作中の名作で、テレビや、映画にもなっているので、ご存知の方も多いと思いますが、もし、ご覧になられた事がなければ、絶対に見ておくべきだと思います。

 

イエス・キリストは、直接には出て来ませんが、その教えが出て来ます。

 

人を許すということが、いかに奇跡を起こすかという物語です。

 

争いの世界に身を置く人達が、本当に求めているものは何なのか。

 

考えさせられます。