鏡作神社(かがみつくりじんじゃ)

近鉄橿原線の田原本町駅から徒歩で約20分のところにある鏡作神社に来ました。

鏡作神社の正式な名称は、鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりいますあまてるみたまじんじゃ)だそうです。

御祭神は、天照国照彦火明命(あまてるくに てるひこ ほあかりのみこと)と、石凝姥命(いしこりどめのみこと)と、天糠戸命(あめのぬかとのみこと)だそうです。

天照国照彦火明命は、三輪山の大物主命(おおものぬしのみこと)と同じ、ニギハヤヒノミコトの別名です。

石凝姥命は、八咫鏡(やたのかがみ)を作った神様だそうです。 

鏡は、映した者の魂を宿すと言われ、八咫鏡は、天岩戸隠れの時に、天照大神の姿を映した為、天照大神の魂を宿し、三種の神器となりました。

天糠戸命は、「旧事本紀」天神本紀に、ニギハヤヒノミコトに供奉して天降ったという鏡作連の祖で、石凝姥命の子供に当たり、天糠戸命の「糠」(ぬか)とは、鍛冶を意味する言葉だそうです。

額田王(ぬかたのおおきみ)の「額」(ぬか)と同じ意味で、推古天皇の諱を額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と言い、推古天皇と同族だと思われます。

この絵は、月岡芳年(つきおかよしとし)という画家の「大日本名将鑑」の中の神武天皇(じんむてんのう)を描いたものです。

神武天皇が、八咫烏(やたがらす)に案内され、和歌山から奈良に入り、富雄(登美)の長髄彦(ながすねひこ)と戦った時に、突然、鵄(とび)が表れ、神武天皇の弓の先にとまり、電撃のごとき金色の煌きを発し、長髄彦の軍は混乱し、勝利を収めたという神話のシーンです。

この鵄(とび)というのは、比喩だと私は思います。

太陽を背にして戦ったから勝てたという記述があるので、鏡を利用して太陽の光を反射させたのではないかと思います。

金色の煌きとは、銅鏡の色だと思います。

鏡を知らない当時の人にとって、太陽の光を反射する鏡は、脅威だったに違いありません。

当時、長髄彦と同盟を組んでいた生駒(哮ヶ峰)のニギハヤヒノミコトを味方につけて神武天皇が鏡を使用したのかもしれません。

鵄(とび)というのは、鳥の中でも、羽ばたかず弓矢のように飛ぶ鳥です。

「飛」ぶ「日」(火)で「トビ」なのでしょうか?

ニギハヤヒは「天の羽々矢」(あまのはばや)を持っていたことで有名です。

この矢は、鵄(とび)のように速かったのかもしれません。

物部尾輿(もののべおこし)は、河内(八尾)で、弓削倭古(ゆげのやまとこ)の娘の阿佐姫(あさひめ)と結婚して弓削の大連(ゆげのおおむらじ)と称し、弓を製作する弓削部を統率し、弓削氏へと分かれていきます。

物部尾輿は、物部守屋(もののべもりや)の父でニギハヤヒの子孫とされます。

速い弓矢を武器とした氏族だったのかもしれません。

長髄彦の妹で、ニギハヤヒの奥さんと言われる登美夜姫(とみやひめ)は、物部氏と同族となった弓削氏を表し、夜という字が使われているので、阿佐姫の姉の香波流姫(かはるひめ)を象徴するのかもしれません。

阿佐姫が、朝日を象徴するとしたら、香波流姫(かはるひめ)は輝く夜の月を象徴します。

輝夜(かぐや)姫のことで、金色に輝く銅鏡と、弓の氏族なので、輝矢(かぐや)姫の意味も掛けているように思われます。

「登美」(とみ)というのは、神武天皇の神話から、よく「鳥見」(とみ)と書かれますが、矢が鳥のように見えたという意味なのかもしれません。

由緒が書かれています。

ここの神社の他に、鏡作伊多神社(かがみつくりいたじんじゃ)と、鏡作麻氣神社(かがみつくりまけじんじゃ)とあるそうです。

拝殿です。

4世紀から5世紀にかけて、銅鏡の製作を専業としていた鏡作部(かがみつくりべ)が、このあたり一帯に住んでいたそうで、彼らが神鏡と遠祖を祀る神社をこの地に建立したのが始まりだそうです。

耳成山の北側に当たります。

ニギハヤヒノミコトは、謎の多い人物なので、興味が尽きません。

それでは、そろそろ帰りましょう。

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