畝傍山(うねびやま)と橿原神宮(かしはらじんぐう)

橿原神宮にやって来ました。

黄葉した参道の銀杏(イチョウ)並木が鮮やかです。

橿原神宮のこの場所は、畝傍山の東南に位置し、樫の木の原生林に覆われていました。

 

畝傍山は蘇我氏の山と考えられます。

 

橿原とは、樫(橿)の林を切り開いた原っぱという意味です。

 

樫(かし)の木は、ブナ科の常緑樹の高木で、ドングリの生る木です。

木に堅いと書くように、強度も高く、耐久性に優れていて、木刀や、木鎚などの道具類や、建築用材などに使われます。

 

常緑樹であるために、樫の木の林は、防風林としての機能も果たし、樫の生葉・生木は、他の樹木と比較した場合に燃え難いこともあり、隣家火災の際には延焼を防止する目的も持ち合わせていました。

樫の木は、水分を多く含むので乾燥に時間がかかりますが、火力が強く、火持ちが良いことから、薪(まき)としても好まれます。

 

乾燥すると、より一掃堅くなってチェーンソーでさえ歯が欠けるそうです。

 

檜や、杉などの多くの木は水に浮かぶのですが、樫の木は、比重が重いことから、ゆっくりと沈んでいく珍しい性質を持っています。

 

水分を多く含む樫の木だからでしょうか?

 

「畝傍山」の別名を「瑞山」(みずやま)と呼びます。

 

南新門の南側に、「深田池」(ふかだいけ)という池があります。

 

「深田」とは低湿地帯の水が豊富な田んぼを意味します。

 

「瑞山」(みずやま)は、「見ずの山」で、「目が無い山」という意味も含まれているのかもしれません。

 

鼻から生まれた素戔嗚尊を象徴する山となります。

 

日本書紀には、蘇我蝦夷や、蘇我入鹿が、畝傍山の東に武器庫を備えた城を建て、その周囲に池を作るなど外敵からの侵入を防ぐ警備策をとったと書かれていて、水に囲まれた山という意味もあるのかもしれません。

御祭神は、初代天皇の神武天皇(じんむてんのう)と、その皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)です。

 

媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)は、大物主命(おおものぬしのみこと)の娘で、子供に、日子八井命(ひこやいのみこと)、神八井耳命(かむやいみみのみこと)、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)の3人がいました。

 

おそらく、耳成山(みみなしやま)、天香久山(あまのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)の三つの山を表していて、物部氏、秦氏、蘇我氏の三氏族を表しているようです。

 

古事記の記述では耳が無かった日子八井命が他の文献などで彦八井耳命と耳を成したり、日子八井命と神八井耳命が同一視されたりする理由は、物部氏と秦氏が注連縄のように婚姻関係で結び付き一つになったからだと思われます。

 

ユダヤ教でいうベニヤミン族(狼)のサウルと婚姻関係になってユダ族(獅子)から王になったダビデと同じです。

 

旧約聖書は南ユダ王国で作られたので救世主はユダ族から出ると信じられていました。

 

聖母マリアがユダ族だとされるのでイエス・キリストも救世主だと言われました。

 

養父ヨセフもユダ族だとカトリックは主張しますが、私はヨセフ族でイエス・キリストの本当の父親だったのだと思います。

 

マグダラのマリアは娼婦と言われますが、ベニヤミン族で実は王族の直系になるようです。

 

しかし、ベニヤミンは難産で母親のラケルは命を落とします。

 

愛宕神社(あたごじんじゃ)の愛宕(あたご)は仇子(あたご)の意味があるようで、伊弉冉命が命を落とした火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が神八井耳命(秦氏)の天香久山になり、ベニヤミンに該当します。

 

武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は三蔵(さくら)を表す蔵王権現(ざおうごんげん)を祀りますが、本当の信仰の中心は大口真神(おおくちまのかみ)という狼の神様でマグダラのマリアを意味するようです。

 

敦賀(つるが)の越前から始まった「雪」の白山信仰の菊理姫(きくりひめ)は推古天皇と習合した持統天皇を指すようです。

 

アセナという雌狼が先祖だというトルコの神話はマグダラのマリアが関係しているようです。

 

同じテュルク系(トルコ系)の騎馬民族の突厥(とっけつ)は朝鮮半島の高句麗と混血していて、菊理(きくり)は高句麗(こうくり)の意味と、菊の裏側という菊裏(きくり)の意味があるようです。

 

マナセ族(秦氏)とエフライム族(蘇我氏)の父親がヨセフ族で、火之迦具土神の荒神(こうじん)で、十一面観音菩薩になります。

 

蘇我倉山田石川麻呂は私はレアのイッサカル族だと思っているのですが、推古天皇の率いたヨセフ族とも婚姻関係で結ばれていて、物部氏と秦氏を結び付けた人物だと思っています。

 

推古天皇はベニヤミン族のマグダラのマリアの子孫の可能性がありそうで、推古天皇が額田王(ぬかたのおおきみ)、蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)が鏡王女(かがみのおおきみ)を表しているのだと私は思います。

 

荒神は、大神神社(おおみわじんじゃ)と檜原神社(ひばらじんじゃ)を繋ぐ狭井神社(さいじんじゃ)で祀られていて、少彦名神(すくなひこなのかみ)という名前もあります。

 

兵庫県三田市に羽束山(はつかやま)という山があります。

 

少し小さい甚五郎山(じんごろうやま)と繋がっている姿が「鯨」に似ている事から「鯨山」(くじらやま)とも呼ばれます。

 

羽束山には香下寺(かしたじ)というお寺があり、欅(けやき)の木で十一面観音菩薩像を彫った時に仏像から良香がしたので「香下」(かした)と読んだというものです。

 

欅は天武天皇を表し、十一面観音菩薩は蘇我倉山田石川麻呂を表すので天武天皇を蘇我倉山田石川麻呂に変えて天皇家から下したという意味だと思います。

 

この辺りは第36代天皇の孝徳天皇(こうとくてんのう)の有間皇子(ありまのみこ)の逸話がよく出てくる土地で三田(さんだ)という地名も有間皇子の御田(みた)から来ているという話もあります。

 

「36」(みろく)は弥勒菩薩(みろくぼさつ)であり、「有間」(ありま)は「有間」(うま)で、元々は天武天皇を表していたのだろうと思います。

 

天智天皇が蘇我入鹿の首を斬った後、自分は天皇にならず、皇極天皇の兄である孝徳天皇を皇位に着かせて蘇我氏側の敵意を躱しますが、本当は皇極天皇の兄ではなく、子供で天智天皇の兄だったのだと思います。

 

天智天皇は第38代天皇で、天武天皇は壬申の乱を起こして第40代天皇となり、天智天皇の弟とされますが、重祚で第36代からの2回目の皇位継承だったのではないかと思います。

 

根拠になる資料等はありませんが、クーデターを起こして最初に即位する重要な天皇なのに、孝徳天皇のその後の扱いが醜い事や、伝承が少ない事などから考察すると、その可能性もありそうです。

 

第35代と第37代は重祚して皇極天皇が天皇を勤めているので、丁度、挟まれた形になり、胎内仏や、狭井神社を意味し、少彦名神に吸収される天武天皇を「有間」(ありま)と表現したのだろうと思います。

 

そして、平安時代後期には持統天皇も含めて「猫間」(ねこま)とも表現されるようになります。

 

羽束(はつか)を母子(もうし)と呼ぶのは、舒明天皇が有馬温泉に湯治に来た時に、香下寺の観音菩薩に猫間中納言定頼を代参させて病が完治し、その褒美として鷹原の土地を猫間中納言に与えたそうで、猫間中納言の妻と子供の母子が「母子草」(ははこぐさ)を摘んで毎年、舒明天皇に献上したのが名前の由来とされます。

 

桃の節句には「母子草」を餅に混ぜて搗く「草餅」の風習がありましたが、母子を杵で搗くのは縁起が良くないと「蓬」(よもぎ)に変わります。

 

おそらく、皇極天皇と天武天皇の「母子」を関係付ける為の逸話で、そのルーツは全て蘇我氏の「馬」(麒麟)が発端だと思います。

 

今回は神沼河耳命(蘇我氏)の畝傍山にやって来ました。

お正月の女の子の遊びに「羽根つき」がありますが、羽子板(はごいた)は母子板(はごいた)で皇極天皇と天武天皇を意味するのだと思います。

 

羽根は「無患子」(むくろじ)の種に羽を取り付けたもので、「無患子」は古語で「桓」(かん)と言った事から桓武天皇の子孫を表しているのだと思います。

 

「無患子」の中で「目薬の木」(めぐすりのき)という日本の固有種である三つ葉の木があり、こちらは推古天皇を意味する「三つ葉の目の神」(みつはのめのかみ)になり、大きく分けると蘇我氏を表す「楓」も「無患子」の仲間に含まれます。

 

羽は鳳凰(ほうおう)の象徴で、それを羽子板で打ちあって、あっちにやったり、こっちにやったりする様子が、藤原北家や、式家に振り回されている桓武天皇の子孫の様子と重なります。

 

羽根を落とした方が墨で顔に落書きされるのは、皇室から離れて「黥」(いれずみ)を入れた海女族になるという事を示唆しているようです。

 

「羽根つき」は和歌山県の道成寺(どうじょうじ)が発祥のようで、海女さんだったという伝説の藤原宮子(お松の宮)のお寺になります。

 

原型は「毬」(まり)を杖でつく遊戯だったようで、「毬」は推古天皇を表します。

 

時代と共に遊戯も形を変えていくようです。

長山稲荷社と書かれています。

 

私は神武天皇は古事記の制作を始めた天武天皇(てんむてんのう)を神格化した天皇で、皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)は持統天皇(じとうてんのう)を表していると思っています。

 

お稲荷さんは通常は天武天皇の母親の皇極天皇(こうぎょくてんのう)を指すものと思いますが、長山の「長」は長屋王(ながやおう)、長谷寺(はせでら)、長尾街道(ながおかいどう)、長髄彦(ながすねひこ)など持統天皇を表す言葉なので、ここで祀られているお稲荷さんは持統天皇を表している可能性が高いと思います。

 

持統天皇は通常は弁財天なのですが、お稲荷さんと習合して宇賀弁財天(うがべんざいてん)と名前を変えました。

 

ここに書かれている宇迦能御魂神(うかのみたまのかみ)という名前の「宇迦」(うか)とは「食料」を表す言葉だとされますが、私は有鹿神社(あるかじんじゃ)の「有鹿」(あるか)を「有鹿」(うか)と読み替えて、別の漢字を充てたものが、この神様の本質だと思います。

 

「有」は魂は不滅だと考えるキリスト教を指し、仏教では常見外道(じょうけんげどう)と呼んで、「有の見」(うのけん)と言われます。

 

この「有」という漢字は蘇我倉山田石川麻呂に関係の深い神社によく使われる言葉で、元々は推古天皇と婚姻関係で同族であった秦氏を表していると思われます。

 

秦氏はネストリウス派の原始キリスト教徒だと私は思っていて、持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の孫に当たるので有鹿之御魂(うかのみたま)と付けたのかもしれません。

 

「名」という漢字も蘇我倉山田石川麻呂によく使われる言葉ですが、ユダヤ教の伝統なのですが、キリスト教では名前は物の本質を表すものなので、神様の名前はむやみに唱えてはならないとして、代わりに「主」(しゅ)という言葉を使ったりします。

 

日本の神様がいくつも名前を持っていて本当の名前が分かりにくかったり、天皇が本当の名前を諱(いみな)と言って隠したりする事にも繋がっていきます。

 

「無鹿」(むか)は永遠不滅の魂は無いと見る「無の見」で、断見外道(だんけんげどう)と呼ばれます。

 

仏教では有るとか無いとか分けて考えないので「鈴鹿」(すずか)になるようです。

 

密教で即身成仏になる時に生死を確認するのが「鈴の音」で、ここから「有鹿」はキリスト教、「鈴鹿」は密教を指すようです。

長尾街道の「長」は「蛇」を表しているそうです。

 

「頭」が大物主命(天智天皇)を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)で、「尾」は娘の持統天皇を表すようです。

 

この長尾街道の中間地点に當麻寺(たいまでら)があります。

 

野見宿禰(蘇我倉山田石川麻呂)に敗れた當麻蹴速(天武天皇)を象徴する寺で、天武天皇と婚姻関係で同族となった蘇我倉山田石川麻呂の阿倍御主人(あべのみうし)を藤原豊成(ふじわらとよなり)が婚姻関係を結び、吸収する形となります。

 

つまり、桓武天皇(かんむてんのう)以降は、天武天皇の血は女系ですが藤原氏を通して天皇家に流れる形となります。

 

私は藤原不比等は天智天皇の落し胤だと思っているので、その子孫である藤原豊成も長尾の一部という事になります。

 

滋賀県長浜市の「虎御前山」(とらごぜんやま)も、元々は「長尾山」と呼ばれていたようです。

 

「虎」と言われた天武天皇が、持統天皇と共に皇極天皇に吸収されて「虎姫」とか「虎御前」と呼ばれるようになったのも「女系」という事が関係しているのかもしれません。

 

この地域は「虎御前」というスイカのような「縦縞」(斑)の「真桑瓜」(まくわうり)が有名ですが、宗像三女神を表す「美濃」(三野)の真桑村が産地の「青」「黄」「白」の「真桑瓜」から外れた形になるようです。

 

この中間地点にある米原市(まいばらし)の伊吹山(いぶきやま)は特別豪雪地帯に指定されていて、1927年2月14日に伊吹山測候所で観測した積雪深11メートル82センチが世界一の記録だそうです。

 

伊吹山は推古天皇の山で日本武尊が祟りにあったという白猪の神様とは「雪」を表しているようです。

 

私は、米原(まいばら)は米原(ヨナはら)だと思っています。

 

「米」は「八十八」と書きますが、「八十八夜」は霜が降りなくなる茶摘みの時期で、「雪」が消え去る意味を持つようです。

 

旧約聖書の出エジプト記の「米」(マナ)であり、「命の源」です。

 

「眼」(まなこ)=「米子」(よなご)です。

 

伊弉諾命の両目から生まれた天照大神の太陽(火)と月読命の月(水)を表します。

日本の太陽が沈む西の最果ての国の与那国(よなぐに)は旧約聖書のヨナ書のヨナを意味して付けられた名前だと思っています。

 

ヨナが海で溺れた時に「巨大な魚」に飲み込まれて3日後に生還した事から、十字架に掛かって3日後に復活したイエス・キリストのシンボルとして「鯨」(くじら)がヨーロッパ人の信仰を集めます。

 

蘇我入鹿(そがのいるか)の「入鹿」(いるか)はおそらく「海豚」(いるか)の事で、「鯨」と「海豚」は生物学上は同じ種になり、体長4メートル未満のものは全て「海豚」と呼び、違いは大きさだけという事になります。

 

一番巨大な「鯨」が「白長須鯨」(シロナガスクジラ)ですが、「長須鯨」(ながすくじら)は、体が青いのが特徴です。

 

この「長須鯨」と「海豚」の中間ぐらいの大きさが「巨頭鯨」(ごんどうくじら)で見た目も「海豚」に近く、「海豚」と「鯨」が同じ種で線引き出来ない事が理解出来ます。

畝傍(うねび)というのは「うねる火」と「うねる尾」という意味があると思います。


「長尾」(ながお)の持統天皇の意味を含ませようとしたのかもしれません。

 

ただ、充てられている漢字が「畝」(うね)と「傍」(おか)です。

 

「畝」は田畑で土の水捌けをよくして通気性を向上させる為に、細長く直線状に土を盛り上げた所を指し、「傍」は「岡」と同じ小高くなった土地です。

 

米作りをする岡なのか、普通に考えると意味が分かりません。

 

でも、長岡京を考えると、「畝」(長)と「尾」(岡)が「長須鯨」の「腹」と「尾」を意味している事が分かります。

 

「鯨」の部位で「腹」を「畝」(うね)、「尾」を「尾羽毛」(おばけ)と呼ぶそうです。

 

何故、「背」が無いのかというと、「背」は天武天皇や、蘇我氏を意味する部分なので省いたようです。

 

「腹」(原)は秦氏で、持統天皇(じとうてんのう)を意味し、「尾」はその子孫を意味するようです。

 

兵庫県美方郡の長須神社(ながすじんじゃ)には山幸彦の天智天皇が祀られています。

 

これも、長尾神社と同じです。

 

長須(ながす)は長洲(ながす)と同じ意味があります。

 

長岡京は、天武天皇の血を排除した桓武天皇が、持統天皇の血を欲しがった時代に造ろうとした都で、弁財天を信仰して厳島神社などを建てた平家の都です。

 

桂川(皇極天皇)と宇治川(持統天皇)と木津川(推古天皇)の合流地点で巨大な巨椋池(おぐらいけ)のあった場所です。

 

「巨椋」(おぐら)は「小倉」(おぐら)で持統天皇の「小豆」(赤)を表し、天武天皇の「大豆」(黄)とセットになりますが、昔は、「巨椋」(おおくら)と呼んで、「鯨」である宗像三女神の「大蔵」(おおくら)を意味したようです。

 

「蔵」(くら)は「暗」(くら)で、日陰を意味し、直射日光の当たらない乾(いぬい)の方角に、稲などの食料を保管する「蔵」(倉)を建てたようです。

 

「目が悪い人」を「目が暗い」と昔の人は言ったようで、耳が良くて目が悪い「鯨」が畝傍山に選ばれたようです。

 

おそらく、巨椋池(おぐらいけ)は鯨池(くじらいけ)だったのだと思います。

 

「椋」(むく)という木の仲間に春日大社の「榎」(えのき)や「欅」(けやき)があります。

 

「榎」は蘇我倉山田石川麻呂(大黒天)、「欅」は天武天皇(毘沙門天)を表します。

 

「欅」の別名は「槻」(つき)です。

 

毘沙門天像を掘ったりする木に選ばれたり、毘沙門天を祀るお寺が集中する高槻(たかつき)などの地名にも残っていたりします。

 

「椋」は持統天皇(弁財天)に該当しそうです。

 

弁財天は別名を伎芸天(ぎげいてん)と呼び、「芸」(げい)の神様とされます。

 

「芸」(げい)は「鯨」(げい)に通じるようで、「芸は身を助く、鯨は胃袋を助くと」言われたり、芸を売る「芸者」(げいしゃ)は身を売る「花魁」(おいらん)とは違うという自尊心から、「芸を売っても身を売るな」などの格言が生まれたようです。

 

この「椋」(むく)に止まる「椋鳥」(むくどり)という小鳥がいます。

 

小さい鳥なのですが集団で行動する習性があるのでその姿を巨大な鳥に見立てて「巨椋」と付けたのかもしれません。

 

集団で生活する為か、よく鳴く鳥です。

 

この鳥とは正反対で単独行動が好きで鳴かない鳥がいます。

 

「鶫」(つぐみ)です。

 

愛知県岡崎市に鶫巣神明宮(とうのすしんめいぐう)という神社があり、豊受大神と迦具土神が祀られています。

 

豊受大神と迦具土神は、本来は遠智娘と蘇我倉山田石川麻呂の事なのですが、現在は皇極天皇と蘇我倉山田石川麻呂になるようです。

遠くに見えるのが本殿です。

神武天皇を導いた「金色の鵄」(トビ)が飛んで来そうです。

もうすぐ巳年も終わりですが、薄い緑色と、白蛇の綺麗な絵馬です。

 

白蛇は大神神社の使いと言われます。

「君が代」にも歌われる「さざれ石」と呼ばれる岩です。

 

小さな石(国民)が積み重なって大きな岩(日本)を作るということから、日本の繁栄を祈る岩です。

本殿に向かって右側が裏参道と呼ばれる道です。

 

ここから畝傍山には登れます。

登山口を入ってすぐの所に神社がありました。

 

東大谷日女命(やまとおおたにひめのみこと)とは、姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)の別名だそうです。

看板の最後に書いてある歌は、万葉集の中大兄皇子(天智天皇)が大和三山を歌ったものです。

 

能の「三山(みつやま)」は、この歌から作られていて、香具山の「膳公成」(かしわでのきんなり)という男をめぐって、耳成山の「桂子」という女と、畝傍山の「桜子」という女が争うという物語です。

 

「畝傍を、をしと」を、「愛(を)し」と訳すと香具山が男になるのですが、「雄(を)し」と訳すと、畝傍山が男になるので、香具山が「桜子」だという説もあります。

 

大化の改新以降は、三山の中で、天の香具山がもっとも貴い山だとされるのは、この山が天照大神を象徴するからだと思います。

 

しかし、元々は、神武天皇が畝傍山の麓に宮を置いて、初代天皇に即位したほどの山ですし、標高も三山の中で、一番高い山なので、大化の改新以前は、畝傍山がもっとも貴い山とされていたのかもしれません。

 

能の「三山(みつやま)」では、「桂子」がイワナガヒメ(推古天皇)で、「桜子」がコノハナサクヤヒメ(持統天皇)で、「膳公成」が、ニニギノミコト(天武天皇)を表しているように思います。

 

「桂子」の「桂」は中国では「金木犀」(きんもくせい)の事で推古天皇の木なのですが、日本ではカツラ科の「桂」の事で皇極天皇を意味するようです。

 

あと、「楠」(くすのき)も月桂樹として「桂」を意味しますが、こちらは藤原鎌足のようです。

 

推古天皇(天細女命)、藤原鎌足(猿田彦大神)、皇極天皇(豊受大神)が複雑に絡み合っているようです。

 

捕鯨(ほげい)の和歌山県太地町(たいじちょう)は恵比寿神社(えびすじんじゃ)があり、恵比寿さんは「鯨」の神様と言われます。

 

藤原鎌足の事で山王と呼ばれる大山咋神(おおやまくいのかみ)でもあるようです。

 

海と山と両方を兼ねて忙しい神様ですが、天武天皇の海幸彦の代わりであり、蘇我倉山田石川麻呂の大山祇神の大黒天と双璧になります。

頂上に着きました。

 

畝傍山口神社社殿跡と書かれた石碑が一本立っています。

 

ここに畝傍山口神社の社があったそうですが、山の麓に移動されたそうです。

 

せっかく頂上まで登って来たのに、なんか物足りない感じがします。

社殿跡以外には、玉垣に囲まれた木があります。

 

樫の木だそうです。

 

畝傍山を象徴する御神木のようです。

ドングリなどの木の実は縄文時代の重要な食料でした。

 

ドングリが実る木の中でも、常緑樹で、高木の樫の木が神聖な木とされたのだと思います。

 

樫(かし)は、「菓子」や「果子」に通じて、木の実や果物など、甘味のある食料を指すようです。

 

縄文時代には、すでに栗などの木の実を粉状にしたものを固めて焼いた、クッキーのようなものが食べられていたようです。

薄く見えるのが、耳成山です。

こちらは、畝火山口神社(うねびやまぐちじんじゃ)です。

 

畝傍の傍(び)が岡ではなく、火(び)になっています。

山頂にあった社が、橿原神宮や、神武天皇陵を見下ろし、神威をけがすという理由により、この場所に遷座したと書かれています。

 

山頂にあった頃のご祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)だそうです。

 

大山祇命(おおやまつみのみこと)とは、蘇我倉山田石川麻呂の事で、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)である持統天皇の祖父になります。

 

大山祇命と大山咋命(おおやまくいのみこと)ですが、「祇」(つみ)は「原罪」(げんざい)の「林檎」(リンゴ)、咋(くい)は「懺悔」(ざんげ)の「瓜」(ウリ)でセットになります。

 

人間はアダムとイヴの楽園で「蛇」に勧められて「林檎」を食べてしまい不老不死を失います。

 

これを「原罪」と呼びますが、イエス・キリストが現れて人間の代わりに罰を受けて十字架に掛かったので罪が許されたというのが「懺悔」です。

 

旧約聖書のヨナ書では、ヨナを砂漠の日差しから守った植物が古代ヘブライ語では「キヨカン」kikayonと書かれていて、同時代の資料も存在していない為に正確な意味は不明だとされますが、現在のヘブライ語から考えて唐胡麻ではないかと言われています。

 

しかし、ヨーロッパの原始キリスト教徒のカタコンベの壁画などに描かれている植物は蔓のある植物で、西洋絵画などでも「瓜」と認識されています。

 

ネストリウス派の景教徒(キリスト教徒)が「瓜」をイエス・キリストのシンボルだと思っていても不思議ではありません。

現在のご祭神の気長足姫命(おきながたらしひめ)は神功皇后の事で、皇極天皇を表しているのだと思いますが、元々は持統天皇の事だったのかもしれません。

 

お稲荷さんが皇極天皇になる前は持統天皇の母親の遠智娘(おちのいらつめ)がその役目だったのかもしれません。

 

山口神社は伊勢神宮から天照大神と豊受大神を勧請した山口県山口市にある山口大神宮が有名かもしれないですが、飛鳥、石村、忍坂、長谷、畝傍、耳無の六所山口神社と、吉野、巨勢、賀茂、當麻、大阪、生駒、都祁、養生の八つを加えて十四所山口神社とも呼ばれていて数が多いのが特徴です。

 

延喜式四時祭には耳無と畝傍が省かれる代わりに甘樫が加わります。

 

おそらく、推古天皇がご祭神の甘樫坐神社が甘樫山口神社で、口が無くなって山口が省かれたのだと思います。

 

甘樫を加えた十五所が、本来の山口神社の数かもしれません。

 

第15代天皇の応神天皇の数です。

推古天皇は畝が無い「抹香鯨」(マッコウクジラ)で、仏事で使用される「樒」(しきみ)を表すようです。

 

「抹香鯨」の腸にある結石で、中国では「龍涎香」(りゅうぜんこう)と呼ばれ、「抹香」と匂いが似ているそうです。

 

「樒」は「梻」(しきみ)とも書かれ、「榊」(さかき)の「神」(神)に対して「仏」(佛)の木とされます。

 

葉も茎も全てが毒であり、特に実が猛毒で、毒物及び劇物取締法で植物で唯一、劇物に指定されているそうです。

 

中華料理で使用される八角(はっかく)も同じ仲間になりますが、こちらはトウシキミと言って毒の無い種類になります。

 

仏事でこの木が使用されるのは、虫や動物がこの木の臭気を嫌うからで遺体を邪気から守る意味があり、遺体の下にこの木の葉を敷いて棺桶に入れる地域もあるそうです。

 

末期の水を、この木の葉っぱに乗せて飲ませたり、一本花と言って枕元に供えたりもするようです。

 

墓場を荒らすオオカミを寄せ付けない為など、色々な理由が伝わります。

 

「しきみ」という音には藤原式家の「式」(しき)でもありますが、仏教の「識」(しき)を表しているのだと思います。

 

密教などでは八識なのですが、聖徳太子が注釈した鬘(桂)が勝つ「勝鬘経」(しょうまんぎょう)には吉祥天の胎内に宿るという胎蔵界の如来蔵思想(にょらいぞうしそう)が語られていて、阿摩羅識(あまらしき)を加えて九識とする八葉の中心、中台八葉院を見るという意味だと思います。

 

源氏物語に登場する「玉鬘」(たまかずら)は聖徳太子のモデルである称徳天皇(しょうとくてんのう)を表していると私は思います。

 

「玉鬘」の父である「頭中将」(とうのちゅうじょう)は称徳天皇(孝謙天皇)の母方の祖父の藤原不比等で、中将姫の頭です。

 

「葵上」(あおいのうえ)は持統天皇の事で「頭中将」の妹になっていますが、これは藤原不比等が実は天智天皇の落とし胤で、藤原不比等の母親の鏡王女(かがみのおおきみ)が遠智娘(おちのいらつめ)の事なので持統天皇とは姉弟の関係になるからです。

 

物語では兄妹と逆にはなりますが、ほぼ、関係性は合っている形になります。

 

「頭中将」のライバルである「光源氏」(ひかるげんじ)は、もちろん、天武天皇の事なのですが、そこに源光(みなもとひかる)を加えた形になります。

 

藤原氏を追い出す為に菅原道真を重用した宇多天皇から、菅原道真を追い落とした功労者が源光で、浄土宗を生み出した法然上人の先祖になります。

 

仁徳天皇に皇位を譲った菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)も源光の事だと私は思っています。

 

道鏡事件の弓削道鏡と称徳天皇(孝謙天皇)の悲恋伝説がある茨城県の御前山は昔は桂村(かつらむら)と呼ばれたそうです。

 

源氏物語35帖「若菜下」にも「樒」が登場します。

 

「朧月夜」(おぼろづきよ)が仏門に入る印として手紙に添えられます。

 

私は「朧月夜」は藤原式家を代表する藤原乙牟漏(ふじわらおとむろ)だと思っています。

 

叔父の藤原百川(ふじわらももかわ)は天智天皇の子であった志貴皇子(しきのみこ)の第6皇子である白壁王(しらかべおう)を立てて、第49代天皇の光仁天皇(こうにんてんのう)が誕生します。

 

「49」という数字は志貴皇子を「49」(しく)=「敷く」(しく)という意味で「樒」(しきみ)を意味するようです。

 

式家(しきけ)の「朧月夜」と禁断の恋に落ちた北家(ほっけ)の「光源氏」はその責任を問われ、須磨(朱馬)に流されて、そこで新しい恋人の「明石の君」と結ばれます。

 

「明石の君」は醍醐天皇(だいごてんのう)の先祖になる宮道列子(みやじのれっし)で物部守屋の子孫になります。

 

源氏物語の作者である紫式部も宮道列子の子孫だそうです。

 

「明石」(あかし)には、赤が死ぬという「赤死」(あかし)の意味があるようで、素戔嗚尊(天武天皇)が八岐大蛇(物部守屋)を退治する物語だったのに、婚姻関係を結んで素戔嗚尊が八岐大蛇になるという皮肉のきいた「オチ」があるようです。

 

藤原式家のルーツは藤原百川の母親の久米若女(くめわかめ)で、この畝傍山の南側に久米寺(くめでら)という小さなお寺があります。

 

推古天皇の時代に聖徳太子の弟の来目皇子(くめのみこ)が建てたお寺で真言宗(密教)発祥のお寺とされます。

 

来目皇子は両目を失明していたとされ、仙術で空を飛行中に、女性のふくらはぎ(太もも)に見とれて地上に落ちてしまった道教の仙人である久米仙人の伝承のあるお寺でもあります。

 

私は久米氏は推古天皇の氏族で、名前を変えて分かりにくくしたものだと思っています。

 

元祖、天照大神で、イエス・キリストの血を引くマグダラのマリアの末裔だと私は思います。

 

光仁天皇の玄孫である「聖宝理源大師」(しょうぼうりげんだいし)が、「醍醐天皇」と皇后の「藤原穏子」(ふじわらおんし)の帰依のもと、「如意輪観音菩薩」(にょいりんかんのんぼさつ)と「准胝観音菩薩」(じゅんでいかんのんぼさつ)を祀る「醍醐寺」(だいごじ)を建てました。

 

「藤原穏子」は源氏物語の弘徽殿の女御(こきでんのにょうご)のモデルだと言われている女性で、藤原北家の出身で、父の基経(もとつね)は摂関政治を築いた良房(よしふさ)の養子となり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇と四代にわたって朝廷の実権を握り、史上初の関白に就任した人物になります。

 

基経の妹の高子は陽成天皇の母親で、その子孫が清和源氏となったので、源氏の誕生と発展に深く関わってきた一族だと言えます。

 

「如意輪観音」は「お稲荷さん」の事で、「准胝観音」はヒンドゥー教の「獅子」を従えるドゥルガーという神様で、「獅子」のいないタイやネパールでは「虎」を従えています。

 

宗像三女神は、パールヴァティー(如意輪観音)、ドゥルガー(准胝観音)、カーリー(千手観音)の三位一体の女神で、「准胝観音」は市杵島姫(いちきしまひめ)、つまり、「弁財天」や「文殊菩薩」と同じ神様になるようです。

 

虎姫や、虎御前は持統天皇のことなのかもしれません。

 

私の家系は清和源氏の出身なので、光仁天皇はご先祖様になり、醍醐寺は「お稲荷さん」と「弁財天」を祀る深い意味を持つお寺になります。

 

因みに、ここで祀られていないカーリー(千手観音)が推古天皇であり、観音菩薩の本来の姿で、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の補陀落浄土(ふだらくじょうど)の仏様です。

 

「藤原穏子」の母親は人康親王(さねやすしんのう)の娘で、人康親王は盲人で座頭、琵琶法師の祖とされ、平家物語の第十「海道下り」によると醍醐天皇の第四宮として山科の四宮河原に住んだとされ、小倉百人一首の盲人の琵琶法師「蝉丸」(せみまる)と同一人物ではないかと言われています。

 

「目」で読む「愛」の「源氏物語」と、「口」で語る「戦」の「平家物語」は、口が無く光を見せる事で求愛する「蛍」と、目が悪く鳴く事で求愛する「蝉」の対比になっているのが分かります。

 

そして、源氏物語では更に、「鼻」で嗅ぐ「香」(こう)が重要なテーマの一つですが、これは天香久山(あまのかぐやま)の推古天皇から始まっているようです。

 

日本書紀によると、推古天皇3年(西暦595年)4月に香木(沈香)が淡路島に漂着したそうです。

 

淡路島の枯木神社(かれきじんじゃ)のご神体として、この香木が祀られているそうです。

 

お香は供香(くこう)と言って、仏教とも切っても切れない縁です。

 

「鼻」の奥にはヤコブソン器官というものがあって、人間は退化したと言われていますが、これが「第三の目」であった可能性があり、伊弉諾命の「鼻」から生まれた素戔嗚尊(天武天皇)が「香」を象徴しているのかもしれません。

 

天武天皇の血を排除しようと藤原式家と結び付いた「平家」と、天武天皇の血を受け継いだ藤原北家が生んだ「源氏」との「鼻」(香)を賭けた争いが源氏物語の根底にあるという見方も出来なくはありません。

 

「無香」(むか)が平家、「有香」(うか)が源氏で、香取神宮、鹿島神宮と並べられる息栖神社(いきすじんじゃ)が「香」(鹿)そのものを表していたと言えそうです。

 

宇迦之御魂(うかのみたま)はお稲荷さん(皇極天皇)の別名とされますが、元々は息長足姫命(おきながたらしひめ)、神功皇后の事で、天武天皇の妃となった持統天皇を表していたようです。

 

敷居(しきい)が推古天皇、鴨居(かもい)が持統天皇だったようです。

 

小野篁が京都の伏見区桃山町にある大善寺で、「六地蔵」を祀るようになって、「六」は「地蔵菩薩」のシンボルとなりますが、元々は「観音菩薩」の「六字大明呪」(ろくじだいみょうじゅ)のシンボルで、阿弥陀如来の称名念仏の元祖になります。

 

長谷寺の十一面観音菩薩像が、地蔵菩薩の持ち物であるはずの錫杖を握っているのも、「六道輪廻」の世界を彷徨う死者の魂を救済する役割が「観音菩薩」から「地蔵菩薩」に移ったからのようです。

 

奈良県桜井市にある天落神六社権現(あまのおちがみろくしゃごんげん)は持統天皇を表しているようですが、皇極天皇に取って代わられた為に、毘沙門天(天武天皇)の宝塔を持って天に登ろうとした雷神が落ちた場所だとという伝承が生まれたのかもしれません。

 

天武天皇も持統天皇も、生前は幸せに暮らせたのに、長屋王の時代に政治で敗れて、子孫がレールから外されてしまったようです。

 

しかし、女系ですが藤原北家を通じて天皇家に再び、両者の血が流れる形となったようです。

 

厳島(いつくしま)も、市杵島(いちきしま)も、五木島(いつきしま)が語源で、五節舞(ごせちのまい)など、天武天皇を表した持統天皇の名前だったようです。

 

漢方の食べ物の性質を表す五気(ごき)や、味を表す醍醐味(だいごみ)の五味(ごみ)も、天武天皇と持統天皇が深く関わった「宇迦」(うか)を語る上で欠かせない要素だと思われます。

 

お稲荷さんである葛の葉の子供とされる安倍晴明の五芒星も、天武天皇、持統天皇の血が深く関わっている安倍氏の子孫を象徴しているように思えます。

 

五穀豊穣の五は太陽と水によって育まれる木(気)の五つの形態で、生命の源だと言えそうです。

こちらは「三柏」(みつかしわ)という紋で、恵比寿さん(藤原鎌足)の紋としても知られます。

 

恵比寿さんは和歌山県太地町(たいじちょう)で祀られる「鯨」の神様になります。

 

太地(たいじ)は退治(たいじ)を意味するのでしょうが、元々は太地(たち)で、太刀(たち)を表していたようです。

 

何の太刀かというと、天皇家の武力の象徴である天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、別名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ぶ太刀です。

 

壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平家が海の中に草薙剣を持って消えていった出来事と関連付ける為の伝承だと思われますが、この太地町は、壇ノ浦から逃げて来た平維盛(たいらのこれもり)が山成島から太地に渡る途中で太刀を落とした場所だとされています。

 

草薙剣とは素戔嗚尊(天武天皇)が八岐大蛇(物部守屋)を退治した時に尾から出て来た剣で、倭姫命(持統天皇)が日本武尊(建皇子)に持たせた剣でもあります。

 

房総で日本武尊を助ける為に千葉の海に沈んだ弟橘姫(おとたちばなひめ)や、最後の妻とされる宮簀姫(みやずひめ)、推古天皇と持統天皇の両方の意味を持つ両道入姫(ふたじのいりひめ)など、どれも時系列で変化していった持統天皇を表している別名なのかもしれません。

 

弟橘姫に橘が付くのは安積親王のように母親が橘氏となって橘氏諸共、海女族になっていった事を象徴しているのかもしれません。

 

尾張氏(おわりし)も「終わり」ではなく、元々は長尾の「尾張」(おはり)だったのだと思います。

 

天武天皇が持統天皇を皇后とする事によって、物部氏の軍事力を手に入れたという意味で、草薙剣は持統天皇を表していたようです。

 

素戔嗚尊は日本武尊と習合して雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)として蘇我氏を代表する形となり、多治比氏(たじひし)になるようです。

 

多治比の「多治」(たじ)は、「多治」(たち)で「太刀」(たち)を表し、「比」(ひ)は比較する事から「非」(ひ)の意味を含み、「太刀ではない」という否定を意味するのだと思います。

久米若女(くめわかめ)と同じ海藻である「ひじき」も、「比敷」(ひじき)で「敷かない」という意味があるのかもしれません。

 

京都市山科区にある随心院(ずいしんいん)で、深草少将(天武天皇)に小野小町(持統天皇)が求愛される「百夜通い」(ももよがよい)の伝説は、百夜にわたって芍薬(しゃくやく)の花を届けれたら求愛をOKして欲しいというもので、「九十九」日目が大雪であった為に深草少将は「雪」(白)に埋もれて死んでしまうという悲恋物語です。

 

随心院の名前の由来は、おそらく、源信の往生要集にある十楽のうちの九番目の随心供仏(ずいしんくぶつ)から来ているのだと思います。

 

十に一つ足りない楽で、深草少将を供養する意味を含ませているのだと思います。

 

随心の対義語のような言葉で随神(ずいしん)や随身(ずいじん)がありますが、神社でいう狛犬や、天皇を守る左大臣、右大臣といった物部氏の国軍に対する秦氏の近衛兵的な意味を持ちます。

 

すぐ近くの伏見区の醍醐寺のある醍醐山は深雪山(みゆきやま)と呼ばれていて、「九十九」は「次が百」(つぎがもも)の「次百」(つくもも)が転じて「次百」(つくも)となり、「九十九」(つくも)と読まれます。

 

「付喪神」(つくもがみ)と呼んで藻(も)が生えた妖怪になるようです。

 

「玉藻前」(たまものまえ)という「九尾の狐」で、「九十九尾」(つづらお)で「鬘尾」(つづらお)でもあります。

 

「葛」(くず)や「藤」(ふじ)の「蔦」(つた)で結び付いた「籠」(かご)の妖怪で、天武天皇を表すようです。

 

「九十九」が「百」に「一」足りないという事から「百」の字の一番上の「一」を取って「白」(つくも)と読んだりもします。

 

鯨漁は鯨組と呼ばれる組織で行われ、銛(もり)を突き刺す「突き取り」という方法が主流だったようです。

 

鯨食文化のある北欧では毒矢で鯨を仕留める方法が取られていたようですが近代化に伴い、大砲で銛を鯨に打ち込むノルウェー式捕鯨が主流となり、山口県下関市では、ノルウェー式捕鯨を採用して大量に鯨が取れるようになります。

 

アメリカは鯨食文化はありませんが、鯨油(げいゆ)を目的とした捕鯨文化があり、捕鯨用ボートで鯨を海の上で解体して脂肪層の皮を釜で煮て油だけを樽に詰めて後の肉は海に捨てていたそうです。

 

アメリカで石油が発見されるまでは鯨油が産業革命に大きく貢献したようです。

 

日本が近代化する切っ掛けとなったペリー来航も、捕鯨船への水の補給などが目的だったようで、近代化が少しでも遅れたら、おそらく日本は西洋諸国の植民地となっていたでしょうし、日本も鯨に助けられたのだと考えると歴史とは皮肉なものだと思います。

 

千葉県東部の「九十九里」(くじゅうくり)は千葉県が鯨漁が盛んだった事もあり、「突く銛」(つくもり)=「九十九里」(つくもり)の意味で付けられた地名の可能性もありそうです。

 

こういう語呂合わせのような、なぞなぞのような話は書いていても疲れてくるのですが、昔の人は言葉遊びが好きだったようで、無視をすると意図が分からなくなってしまうので、敢えて長々と書きました。

 

そのままの読み方である「九十九里」(くじゅうくり)は、「苦渋の栗」(くじゅうのくり)という意味になり、「栗」に関する天武天皇の逸話は御栗栖神社(みくるすじんじゃ)や「宇治拾遺物語」(うじしゅういものがたり)の焼き栗、煮栗伝承などに残されていて、天武天皇が苦しみ悩むという意味と、美味しくない苦くて渋い栗という意味も含ませてあるように思われます。

 

醍醐寺の「准胝観音」(じゅんでいかんのん)の像は上醍醐の「柏の木」で掘られたものでしたが、お堂に雷が落ちて焼失した為に、下醍醐の観音堂に移され、上醍醐は「如意輪観音」(皇極天皇)、下醍醐は「准胝観音」(持統天皇)という形になっています。

 

宗像三女神のリーダーだった持統天皇(青龍)が、平家(赤)の滅亡と共に皇極天皇(白虎)と立場が逆転したという事と、偶然でしょうが同じような結果となっています。

 

東の守り神である天智天皇に対して、小倉餡(赤)の入った白いお餅の「柏餅」(かしわもち)は、藤原鎌足が最後に全て掴んで、西の守り神(恵比寿さん)になった事を象徴しているかのようです。

 

白いお餅は皇極天皇で、小倉餡は持統天皇で、それを包むのが「柏」の葉っぱの藤原鎌足です。

神武天皇が熊野から大和に入って宇陀(うだ)に着いた時に「兄宇迦斯」(えうかし)と「弟宇迦斯」(おとうかし)という兄弟の治める地元の豪族に出会い、兄は逆らって死に、弟は降参して神武天皇に御馳走を用意してもてなしたそうです。

 

その時、神武天皇が詠んだ歌が

 

宇陀の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし くじら障る…

 

罠を仕掛けたら鴫(しぎ)が取れず、くじらが取れた、弟宇迦斯がくじらを御馳走してくれたという意味のようです。

 

古事記では「久治良」、日本書紀では「区施羅」と書かれていて、本居宣長などは「鯨」だろうという事になってはいるのですが、山間部で、鴫が鯨になるのはおかしいんじゃないかという意見もあるようです。

 

私は、この話はただの比喩なので「鯨」で正しいと思います。

 

「鴫」(しぎ)は天智天皇の志貴皇子、「鯨」は持統天皇を表していたのだと思います。

 

おそらく、「兄宇迦斯」は宇陀(うだ)の地名にもなっている宇多天皇で、「弟宇迦斯」はその息子の醍醐天皇を表しているんだと思います。

 

古事記が完成したのは元明天皇の時代ですが、原本は存在せず、現在は写本が残されているそうなのですが、当時は誰でもが見れるものではなく、朝廷で厳重に管理されていたようで、その内容を知る者はごく限られた少数だったようです。

 

日本書紀より先に完成していたはずの古事記に、日本書紀の後の神話の内容が書かれていたり、延喜式に載っていない神社が書かれていたり、後の時代に訂正や、加筆がされたのではないかという説もあるようです。

 

この「鯨」の逸話なども、後から加えられた可能性もありそうです。

 

仏教に帰依する天皇は多いですが、宇多天皇のように自ら密教の阿闍梨となって弟子まで育てた天皇は例をみませんでした。

 

そのお陰で空海が亡くなってから(真言宗では即身成仏となってまだ生きておられるという立場)天台宗に押されて下火になりかけていた密教を再び元気にさせた天皇なのですが、藤原氏の摂関政治を嫌い藤原時平を外す為に菅原道真を立てようとした天皇でもあります。

 

藤原氏からすると、とても厄介な天皇です。

 

反対に醍醐天皇は藤原氏の摂関政治に賛成で、菅原道真を左遷したのですが、藤原時平、保明親王、慶頼王と次々と亡くなり、清涼殿に雷が落ちて、菅原道真の祟りだと噂され、体調を崩して病気になって崩御します。

 

和歌山県太地町の鯨組は和田氏という氏族が執り行っていましたが、千葉県の安房勝山の鯨組は醍醐氏という氏族が行っていたようです。

 

醍醐氏が鯨組を組織したのは江戸時代からのようですが、鎌倉時代の遺跡から鯨の骨が多く出土している事から、南房総では鎌倉時代から室町時代にかけて捕鯨が盛んに行われていたようです。

 

この氏族の名前も、本来なら天皇と同じ名前を使う事は憚れる事だと思うのですが、敢えて使っているのは、「弟宇迦斯」の醍醐天皇がおそらく名前の由来なのだろうと思います。

 

「宇迦斯」(うかし)という名前は「有鹿が死ぬ」という意味で、常見外道(じょうけんげどう)のキリスト教の終わりを表したのと同時に、キリスト教のシンボルである「鯨の死」を表したのだと思います。

 

「兄宇迦斯」は長脛彦(ながすねひこ)に味方したというのは持統天皇の味方をしたという事のようです。

 

「兄宇迦斯」が死んだ時に流れた血で野原が染まり、「血原」(ちばら)という地名が生まれたと書かれていますが、虎御前山のある長浜市に「血原」(千原)という地名があります。

 

ここは、織田信長と浅井、朝倉軍が激突したところで、戦死者も多く、それが地名の由来だと思われていますが、私はそれよりも古い時代からそう呼ばれていて、宇多天皇が名前の由来ではないかと思っています。

 

「茜さす」の歌で有名な額田王(ぬかたのおおきみ)ですが、私は推古天皇を表した架空の人物だと思っています。

 

この「茜」(あかね)という植物は和歌山に多く自生していて緋染めの原料に使用されます。

 

魏志倭人伝に魏の明帝(曹叡)に女王卑弥呼が緋染めの織物を献上した事が書かれていて、奈良時代には聖武天皇しか使用出来ない禁色とされていて、正倉院には約150点の緋染めの裂地等が残されています。

 

聖武天皇は天武天皇と持統天皇の子孫です。

 

緋染めには「深緋」(ふかひ)と「浅緋」(あさひ)に分かれていて、この血原という土地は推古天皇との縁が少ない「浅緋」(あさひ)で、これが浅井家に繋がるようです。

 

「茜」の根は血止めの薬草としても知られ、捕鯨には大量の血が流れるので、このような皮肉めいた話が作られたのだと思います。

 

「茜」(赤根)の仲間に源氏物語の六条御息所の6弁の白い花である梔子(くちなし)がありますが、こちらは緋色ではなく、黄色の染料になります。

 

赤は鳳凰(ほうおう)である秦氏、黄は麒麟(きりん)である蘇我氏の色で、推古天皇は赤色の秦氏だったのに、滅ぼされた蘇我氏の黄色の系図に組み込まれたのだと思います。

 

鎌倉時代になると緋染めの職人もいなくなり、「茜」は忘れ去られますが、江戸時代に船舶用の国際標識として日の丸の国旗が導入され、太陽を表す赤色は緋染めが使用されたようです。

 

福井県敦賀市も「海豚」(いるか)を食用とする文化があったようです。

 

古事記によると、武内宿禰(藤原鎌足)が応神天皇(天武天皇)を連れて、この地にやって来た時に、夢に伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)という神様が現れて、これからは私の名前を応神天皇の名前に付けるといいと言われ、翌朝、浜にいくようにとお告げがあり、言われたように浜に行くと、大量の「海豚」(いるか)が鼻から「血」を出して集まっていて、応神天皇が、神様が食料をくださったと叫び、この浜を「血浦」(つぬが)と呼び、それが「角鹿」(つぬが)になり、現代の「敦賀」(つるが)になったというものです。

 

食料である「宇迦」(うか)が「鯨」(海豚)になった瞬間です。

 

神様が「海豚」を御馳走したという話ですが、ここでも「鯨」と同様に「血」が象徴的に語られています。

 

推古天皇がイエス・キリストの「血」を引くという元々の意味があったので、素戔嗚尊(天武天皇)を象徴する鼻に焦点を絞って「血」を象徴的に記述したのだと思います。

 

敦賀には氣比神宮(けひじんぐう)という神社があり、伊奢沙和気大神がご祭神で、第14代天皇の「仲哀天皇」の建てた神社のようです。

 

「仲哀天皇」(ちゅうあいてんのう)は神功皇后と日本武尊の二つの系統を一つに結び付ける天皇ですが、「ちゅうあい」から「ち」(血)を引くと隣人愛の「ゆうあい」(友愛)という言葉が残ります。

 

ちょうど、イエス・キリストの父親である「血」の繋がりのない養父ヨセフに当たります。

 

つまり、「血」を引くとイエス・キリストの血を引かないペテロを担ぎ上げたカトリックになるという事です。

 

伊弉諾命(いざなぎのみこと)と伊弉冉命(いざなみのみこと)の間に入って「血」を断った日本神話の「千曳石」(ちびきいし)=「血引石」(ちびきいし)になります。

 

「血」は人間である証拠であり、穢れともされます。

 

神様にはふさわしくありません。

 

ペテロの西方教会と、マグダラのマリアの東方正教会の後継者争いで、日本の皇室に深く関わる秦氏は、東方正教会から異端とされ追放されたネストリウス派のキリスト教徒だと考えると、イエス・キリストの血がマグダラのマリアや、推古天皇を通して皇室に流れ込んだ可能性も私は十分にあると考えています。

 

人間イエス・キリスト(太陽)の血を引く天照大神です。

 

伊奢沙和気(いざさわけ)は「伊奢」(いざ)を「波」(なみ)と「凪」(なぎ)に、沙(砂)のように細かく和気(分けた)神様なのかもしれません。

 

「伊奢」(いざ)は「去来」(きょらい)で、過去と未来を指す言葉ですが、「鯨」(いさ)の意味を含み、分けた結果、生まれたのが水の蛭子神(恵比寿さん)と火の迦具土神(大黒天)になります。

 

仏教は分けない無分別智(むぶんべつち)が基本ですが、キリスト教は分けて考えるという「有鹿」(うか)を皮肉にした言葉なのだと思います。

 

「凪」(なぎ)は「鯨」の背中で畝のない方で男性の「火」、「波」(なみ)は「鯨」の腹で畝のある方で女性の「水」なのかもしれません。

 

「火」と「水」を分けた「水」が「畝傍山」(うねびやま)=「瑞山」(見ず山)のようで、畝火神社の「火」は仮の姿のようです。

 

醍醐天皇の時代に山城、大和の国の神社の中から16社を対象に奉幣を行う「十六社奉幣」が定められ、「十六夜」(いざよい)など「十六」(じゅうろく)も「十六」(いざ)と読むようになります。

 

仏教では大般若経を守る「十六善神」(じゅうろくぜんしん)と言われ、「十六葉八重表菊紋」が天皇家の紋となり、「鯨」は第16代天皇の仁徳天皇を表す数字になったのかもしれません。

 

16の数字の元々のルーツは、福音記者のマタイとヨハネは重複するのですが、イエス・キリストの十二使徒と四福音記者を足した数字だと私は思います。

 

奈良県の伯母峰峠(おばみねとうげ)に「猪笹王」(いざさおう)という背中に「熊笹」(くまざさ)の生えた「猪」の妖怪の伝承があり、兵庫県姫路市安富町に「伊佐々王」(いざさおう)という背中に「篠笹」(しのざさ)の生えた「鹿」の妖怪の伝承があります。

 

「猪」は推古天皇を表し、「鹿」は持統天皇を表しますが、両者が八幡神として一つになる事を表しているのかもしれません。

 

「竹」は天武天皇を表し、「笹」はその子孫を象徴しますが、「篠」(しの)は「女竹」(めだけ)で持統天皇を表し、日差しを防ぐ「簾」(すだれ)になります。

 

旧約聖書のヨナ書のヨナを日差しから守った「瓜」(うり)=救世主の代わりです。

 

岡山県には佐々木盛綱に利用されて殺された若者の母親が「佐々木と聞けば笹まで憎い」と手が血まみれになりながら笹をむしったという伝承のある「笹無山」(ささなしやま)という山があります。

 

宇多天皇の子孫の佐々木氏(ささきし)は「笹の木」を意味するようで、妖怪の正体は宇多天皇のようです。

 

「氣比」(けひ)は、気(毛)を比べる神様という事ですが、本来、気は姿形を変えるものなので比べても仕方がないものなのですが、キリスト教の矛盾の本質を「言葉」で表しているのだと思います。

 

「氣比」には「刑」(けい)の意味もあるのかもしれません。

 

キリストの「磔刑」であり、中国では罪人に「入れ墨」を入れる風習もありました。

 

日本でも江戸時代には罪人は「入れ墨」を入れたらしく、和歌山県では腕に「悪」の文字を、犯罪を何回も繰り返す人には額には「犬」の文字を入れたそうです。

 

明治になると先進国を目指して「入れ墨」は一旦、禁止されますが1948年以降は解禁となります。

 

ヨハネの福音書では「言葉」は神様が生み出したものではなく、神様と共にあったものだとされ、日本では「行動」を起こす前の「掛け声」となり、「いざ」は突撃など、勝負の「出陣」を表す言葉となります。

 

天皇家の「出陣」、つまり、神武天皇の橿原神宮になります。

 

血場(ちば)は戦場を表します。

 

「気」(き)は道教の根幹でもありますが、紀氏(きし)の末裔が移り住んだという説がある毛野(けの)の「毛」(け)を意味するのかもしれません。

 

紀氏は、天武天皇とも関わりの深い和歌山に住んでいた氏族になります。

 

八幡神が「聖霊」(気)を表すのも、三位一体を否定したネストリウス派の影響だと思います。

 

父と子と聖霊ではなく、父と子と母が我々の知らない本来のキリスト教だったようです。

 

女性であり人間も神として認める先鋭的な宗教です。

 

天照大神はネストリウス派の影響を受けた大乗仏教や、法華経の童女でありながら悟りを開いた善女竜王(ぜんにょりゅうおう)であり、ガリレオを初め、科学という魔法であり、エネルギー保存の法則が示すように、姿を変えるが、決して無くならないものが「聖霊」(気)の正体と言えそうです。

 

九識の如来蔵思想は人間と神の融合と考えてもよく、イスラムの神秘主義のスーフィーとも繋がります。

 

スーフィーはイスラム教徒からは異端とされますが、原始キリスト教や仏教との繋がりから生まれたものだと思われます。

 

スーフィーが「茜」と同じ仲間のコーヒーノキの豆を煎じてカフェインを摂取して修行をしていた歴史とも通じるように思います。

 

コーヒーノキはエチオピアが原産の植物ですが、最初は眠気覚ましの薬としてトルコを経由してアラビアに伝わったようです。

 

カルディの山羊の話が有名です。

 

エチオピアはラスタファリアニズムの国で、ソロモン王とシバの女王の子孫が治めたという伝承がある国で、大黒天(シヴァ)とも深い繋がりのある国です。

 

バビロンに南ユダ王国が滅ぼされた時にイザヤが「契約の箱」を非難させた土地ではないかとも言われています。

 

「イザ」はヘブライ語で「救い」、「ヤ」は「ハレルヤ」の「ハレル」(誉めたたえよ)、「ヤ」(神を)のように「ヤハウェ」の短縮形で「神」を意味し、イザヤは「救いの神」という意味になります。

 

大物主命のシンボルが「丹塗り矢」の「矢」(ヤ)なのも、ヘブライ語の「神」を念頭に置いているのかもしれません。

 

だけど、日本人は「契約の箱」の中身は、「旧約」(古い神様との契約)の「三種の神器」ではなく、「新約」(新しい神様との契約)の「隣人愛」を入れて、平等院という「契約の箱」の中に阿弥陀如来の18番(おはこ)である「全人類救済」を入れたようです。

 

藤原氏が浄土教に力を注いだのは宇多天皇が密教に結び付き過ぎた反動のようです。

 

レゲエのドレッドヘアーはシヴァの頭を模したもので、シヴァの体が黒いのはイスラムなどの中東の人々や、アフリカなどの黒人を表しているのかもしれません。

 

ヴィシュヌが白人を表しているのとは対照的で、旧約聖書で呪われたハムの子孫を救世主であるイエス・キリストが新しい契約として祝福を授ける意味がシヴァの黒には込められているように私には感じられます。

 

白人だけがイエス・キリストの救済の対象ではないということです。

 

持統天皇を表す宗像氏(むなかたし)や、天武天皇を表す安曇氏(あずみし)も、元々は中国の長江以南の海岸部に居住した海洋民族とは関係のない氏族でしたが、「海女」(あま)である藤原宮子の道成寺の髪長姫の伝説を踏まえて、藤原宮子の孫である安積親王(あさかしんのう)などを通じて越の末裔と婚姻関係を結ばせたのではないかと私は思います。

 

宗像氏(むなかたし)はヤクザのように胸(むね)と肩(かた)に「入れ墨」を入れた氏族、安曇氏(あずみし)はツタンカーメンのアイラインのように目の周りに「入れ墨」を入れた氏族となり、「鯨面文身」(げいめんぶんしん)として「黥」(すみ)がシンボルの海洋民族に変えられてしまいます。

 

旧約聖書のレビ記19章28節には「入れ墨」が禁止され、「コリントの信徒への手紙一」でも身体は「聖霊の宮」なので、傷を付ける行為である「入れ墨」は良くないとパウロは言います。

 

イエス・キリストがもしも生きていたならば、おそらく「入れ墨」を入れた人にも差別なく接していただろうと想像出来ますが、「入れ墨」は異教の神を信じる人達で悪魔崇拝の象徴とされるようです。

 

現代は、全身にタトゥーを入れたり、ピアスだらけにしたり、ファッションの一つとなっていますが、ドラッグなどで異常な状態になっているロック歌手もいて、社会に対する嫌悪感や、人よりも目立ちたいという自己顕示欲が原因になっているのかもしれません。

 

那智大社で売られていた那智黒石(なちぐろいし)は光沢のある綺麗な石ですが、那智黒石で作られる「鯨」の文鎮や、朱肉入れは、「赤」が元々の色だった事が想像出来てブラックユーモアに富んでいます。

 

私は「鯨」を食べるという行為に関しては、他の「牛」や「豚」や「鶏」と一緒で反対ではないのですが、海が「血」で真っ赤に染まる光景は想像するだけでも痛々しいです。

 

魚は血と内蔵を残していると腐りやすく鮮度が落ちるので血を抜くのが理にかなっているのかもしれませんが、肉になる過程は、出来るだけ動物達に苦痛のないようにしてあげてほしいと思います。

 

魚の活け造りや、伊勢海老の残酷焼きなど、挙げるとキリがないぐらい動物達には酷い扱いが出て来ます。

 

結局、新鮮さや、コスト、客寄せによる収益などを考えて、人間にとって一番効率の良い方法を取っているだけなのだと思います。

 

それらを、やめさせるには法律で規制するしかありません。

 

動物愛護の意識が高まっている時代とはいえ、動物達の事を考えて政治家が優先的に動く事はありえなさそうにも思えます。

 

反捕鯨団体のシー・シェパードも、闇雲に日本の捕鯨を妨害するのではなく、「鯨」以外の動物全般の「食肉」の取り扱いについて、公平な国際法を決めて正式な手順を踏んで抗議するべきだと思います。

 

「鯨」の肉は悪くて、自分達が食べる「豚」のソーセージの肉は良いでは、なかなか同意を得る事は出来ないと思います。

 

肉以外の大豆ミートなども生まれていますが、ヴィーガン(完全菜食主義)の方も、動物は悪くて植物は良いという考えや主張も道理から外れていると私は思うので、こういう事を考え出すと答えが出なくなってきます。

 

人間が増えれば増えるほど、動物達の犠牲は増えていきます。

 

命とは何かという根本的な問題に突き当ります。

 

痛みや、苦しみ、悲しみ、その反対である快楽や、喜びを感じる脳の機能は全て命を続ける為に生き物に備わったものだと言えます。

 

全ての生き物が必ず、最後には死を迎えて消えていく事を考えると、何故、そのような機能が必要なのかと感じますが、自ら死を選ばないように苦しみで留まらせているようです。

 

命を永遠に続ける為に苦しむので、死はそこからの解放で、生れてくる前の状態に戻る事を意味します。

 

食べる為に殺すという行為より、苦しんだ状態で長く生かしている状態が残酷なのであり、共感力(エンパシー)という人間に備わった能力が肉を食べる事の罪悪感を生み出しているのだと思います。

 

キリスト教の本質である愛他的精神(あいたてきせいしん)です。

 

きりがないので、肉の話はこれで終わりにします。

 

久米寺の創建は推古天皇の時代になっていますが、本当は宇多天皇によって生まれたのかもしれません。

 

奈良県橿原市久米町には久米御縣神社(くめのみあがたじんじゃ)があり、「黥利目」(さけるとめ)という目の周りに「入れ墨」をした「大久米命」(おおくめみこと)が祀られていて、神武天皇のモデルであった天武天皇を表しているものと思われ、「入れ墨」はキリスト教との決別の印のようです。

 

「鯨の歌」は久米歌にも載っているようです。

「奥山の 樒が花の 名のごとや しくしく君に 恋(こ)ひわたりなむ」  

 

                        大原今城

 

畝傍山は、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と言われた神武天皇の山でしたが、現在は物部氏の祖神である第10代天皇の崇神天皇(すじんてんのう)の山なのかもしれません。

 

「自分の目で見ながら見えず、自分の耳で聞きながら聞こえず、自分の心で悟れなくなる」

 

イザヤ書でイザヤがユダヤ人の子孫を案じて発せられた言葉です。

 

室町時代の名前の由来である氷室神社(ひむろじんじゃ)は、元々は、木花咲耶姫(このさくやひめ)の火室神社(ひむろじんじゃ)だったようです。

 

「火」なのか「氷」なのか、「瑞山」(みずやま)を見るには「心眼」(しんがん)が大切なようです。

 

 

それでは、帰りましょう。

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