耳成山(みみなしやま)

階段の左側に山口神社参道、

右側に天神山と書かれています。

耳無山(みみなしやま)と書かれています。

 

本来は、こちらの「無」(なし)が正しくて、後世の人が、縁起が悪いので「成」(なし)の字に変えたのでしょうか?

 

正反対の意味を持たせて仏教の「無分別智」(むぶんべつち)や、道教の「太極」(たいきょく)を表しているのかもしれません。

 

この場所から北西に耳梨行宮(みみなしかりのみや)と呼ばれる跡地があります。

 

推古天皇をご祭神とする樋口神社(ひぐちじんじゃ)の別名ですが「樋口」も音だけを聞くと「火」を連想するのに「水」を表す漢字になります。

 

日本では漢字は当て字が多い事を考えると、「ひ」は「火」を表すと考える方が自然だと思います。

 

女王卑弥呼の神社で、耳成山が一心同体という事なのかもしれません。

神道で榊の枝を回転させて逆さまにする「鏡」の儀式と同じ意味を持つのだと思います。

 

「耳」が無いとされるのは、「耳」が豊聡耳(とよとみみ)と言われた聖徳太子を表し、聖徳太子と争って敗れた八岐大蛇(やまたのおろち)の物部守屋を表す山だからだと思われます。

 

山口神社は、日本各地にありますが、日本に言葉と儒教を伝えた「口」の神様で、大山祇神(おおやまつみのかみ)が御祭神です。

 

言葉の神様である事代主神(恵比寿さん)は藤原鎌足の事で、大山祇神は蘇我倉山田石川麻呂だと私は思います。

 

この山は、天神山とも呼ばれるようです。

 

本来は天神というと菅原道真の事を指しますが、菅原道真の先祖である蘇我倉山田石川麻呂が、物部氏の天智天皇に味方して八咫烏(やたがらす)になったのだと思います。

 

「耳」は無くても「口」は有るわけです。

私は、「言葉」というと、どうしても、ヨハネの福音書を思い浮かべてしまいます。

 

「初めに、言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この方は、初めに神と共におられた。」

 

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つ福音書のうち、ヨハネの福音書だけが異質で、他の福音書が系図から始まるのに対して、ヨハネの福音書だけは、何故か、この意味ありげな文章から始まります。

 

解釈はいろいろとありますが、「言葉」、「智恵」、「理性」というものが、イエスの教えの本質だということをヨハネは伝えたかったのかもしれません。

 

本来、世界を創造したのは神であり、初めに…に続く言葉は、当然「神」であるのが常識でしたが、そこに、人間の「言葉」を置いたわけです。

ヤマタノオロチをスサノオが退治した神話も、赤い竜をミカエルが退治した「ヨハネの黙示録」の神話とよく似ています。

 

私は、秦氏はネストリウス派の景教徒(原始キリスト教徒)だという説に同意していて、古事記を作ろうとした天武天皇が、物部守屋を赤い竜(ヤマタノオロチ)に見立てて、自分をミカエル(スサノオ)として神話を創作しようとしたのではないかと思います。

 

京都市右京区太秦にある広隆寺(こうりゅうじ)は、603年(推古天皇11年)秦河勝が聖徳太子から賜った弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)を本尊として建立したのが始まりで、京都最古のお寺です。

 

弥勒菩薩とは、キリスト教でのミカエル(スサノオ)に当たります。

 

天武天皇が亡くなった後、藤原不比等によって創作が受け継がれた記紀では、スサノオは乱暴者とされますが、ヤマタノオロチを退治する神話が、既に天武天皇の氏族の間に広まってしまっていたからか、あるいは、物語として面白かったからか、この話は残したまま、古事記を編纂したようです。

 

スサノオが、英雄と乱暴者の二面性を持つ複雑な性格の神様になってしまっているのは、作者が途中で変わってしまった為だと思われます。

記紀の神話では、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の左目から天照大神(あまてらすおおかみ)が生まれ、右目から月読命(つくよみのみこと)が生まれ、鼻から素戔男尊(すさのおのみこと)が生れたとされます。

 

三神とも顔の部分を表していますが、顔の部分として重要な口からは、記述がありません。

これは、ヨハネの福音書の「初めに言葉があった」という部分を意識しているのかもしれません。

 

この三神が生まれる以前の「神産み」の神話で、すでに口(言葉)の神様は生まれています。

 

まず、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と、伊邪那美命(イザナミノミコト)が言葉を掛け合います。

 

伊邪(いざ)とは、言葉を掛け「誘う(いざなう)」という意味だそうです。

女性の伊邪那美(イザナミ)から言葉を掛けると、蛭子(ヒルコ)という蛇のような姿の水の神様が生まれ、失敗に終わり海に流します。

 

今度は、男性の伊邪那岐(イザナギ)から言葉を掛けると、たくさんの神々が生まれ成功するのですが、最後に迦具土(カグツチ)という火の神様を生んだ為に、その炎で伊邪那美(イザナミ)は、火傷をして亡くなってしまいます。

 

古事記では大山祇神(おおやまつみのかみ)は、この神産みで生れた、たくさんの神々の一人ですが、日本書紀では、伊邪那美(イザナミ)が死んで、怒った伊邪那岐(イザナギ)が、十束剣(とつかのつるぎ)で迦具土(カグツチ)を斬り、そこから8人の神様が生まれ、大山祇神(おおやまつみのかみ)は、その一人だとされます。

 

大山祇神は、櫛稲田姫の父母の足名椎命(あしなづち)、手名椎命(てなづち)の父で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻となった木花開耶姫(このはなさくやひめ)と、その姉の磐長姫(いわながひめ)の父親でもあります。

 

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は天武天皇、木花開耶姫(このはなさくやひめ)は持統天皇で、蘇我倉山田石川麻呂は祖父に当たり、父だったり祖父だったり神話とは少し関係性が変わっていて混乱します。

蛭子(ヒルコ)は「水」で恵比寿さん、迦具土(カグツチ)は「火」で荒神さん、この相反する二つの神様が大山祇神に纏められています。

大山祇神は名前の通り「山」の神様なのですが、本拠地であるしまなみ海道の大三島の三嶋大社では「海」の神様として祀られているのも、その性質によるものかもしれません。

 

そして、松尾大社や、比叡山で祀られる大山咋神(おおやまくいのかみ)も名前が似ている為に混乱に拍車をかけます。

 

大山咋神は「丹塗矢」の神様で、天智天皇を表しているのだと思いますが、本来は、大山祇神と大山咋神は同一神で、蘇我倉山田石川麻呂を表した神様だと思います。

 

大己貴命と大国主命が同一神なのに名前が2つあるのと似ています。

蘇我氏と物部氏のように違う氏族を結び付けたり、同じ氏族を切り離したりする時に別の名前が使用されるようです。

 

この「祇」(つみ)と「咋」(くい)は「罪」(つみ)と「悔い」(くい)で、キリスト教の「リンゴ」(原罪)と「ウリ」(救済)を意味していると思います。

 

アダムとイヴの大山神に対して、大山咋神はイエス・キリストに当たります。

 

長岡京のあった咋岡神社(くいおかじんじゃ)の咋岡山は、現在は飯岡山(いのおかやま)と呼ばれていますが、昔は馬咋山(うまくいやま)と呼ばれていたようです。

 

ご祭神も、天神から宇迦之御魂神(お稲荷さん)に変わっていきます。

馬咋は「うまくい」と読むようですが、本来は「まくわ」で、真桑瓜(まくわうり)を意味したのだと思います。

真桑瓜(まくわうり)は、黄色(天武天皇)、青色(持統天皇)、白色(皇極天皇)の三つの色があって、岐阜県の真桑村(まくわむら)で作られた事が名前の由来とされます。

 

メロンの亜種で、瓜の中では糖度の高い野菜になります。

 

この「真桑」という土地は真桑文楽(まくわぶんらく)の発祥の地で、各務野(かかみの)、青野、大野(賀茂野)の三つの土地から「三野」(みの)と呼ばれ、それが後の「美濃」(みの)になります。

「美濃」は「耳納」(みの)とも書かれます。

 

阿弥陀寺(赤間神宮)の「耳なし芳一」(みみなしほういち)の話を思い出してしまいます。

 

各務野は、多分、鏡野(かがみの)の意味で、一番最初は天武天皇の黄色を表したのだと思います。

 

それが、持統天皇が金鵄(きんし)の金(黄色)を表す色になって、最終的には皇極天皇に吸収されて物部氏を表す色として青が持統天皇の色になったのだと思います。

 

青面金剛(しょうめんこんごう)や、蔵王権現(ざおうごんげん)

です。

罪と悔いの話に戻りますが、大山神が蘇我倉山田石川麻呂で、大山咋神がその孫の持統天皇だったと思うのですが、式家(秦氏と姻戚)の藤原種継の暗殺によって長岡京から平安京に遷都する事になり、北家(土師氏と姻戚)が再び力を持つ事になり、天智天皇を意味する松や丹塗矢を持ち出して、大山咋神と一緒に持統天皇を表す市杵嶋姫と共に祀る事にして、大山咋神と持統天皇を切り離したのだと思います。

 

持統天皇は天智天皇の娘でもあるので、蘇我倉山田石川麻呂と天智天皇の結び付いた耳成山とも同じ構図を感じます。

 

大倭根子(おおやまとねこ)とは持統天皇の諡です。

「根子」(ねこ)はおそらく「猫」(ねこ)の事で、持統天皇が生前に猫を可愛がっていたのか、あるいはお稲荷さんである県犬養三千代の「犬」と区別する為なのか、よく分かりません。

 

「猫」は蚕を食べるネズミから守る益獣として奈良時代に中国から輸入されたようですが、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡からは猫の骨が見つかっているようなので弥生時代から存在していたようです。

 

弁財天と文殊菩薩は同じ仏様で、獅子に乗っている事から、蘇我倉山田石川麻呂を「獅子」に例えて、その孫の持統天皇を「猫」にしたのかもしれません。

 

源氏物語34帖「若菜上」にも「猫」が登場します。

 

「柏木」と「女三宮」の不倫の切っ掛けを作り、「匂宮」のライバルとなる「薫」を生み出した張本人です。

嵯峨天皇が小野篁に出した「子子子子子子子子子子子子」は何と読むのかという問題で、「猫の子 仔猫、獅子の子 仔獅子」が正解だとされますが、子子(しし)が鹿(しし)の意味にも取れるので、持統天皇を表すクイズだとも思えます。

 

小野篁は閻魔大王に仕えたという逸話があるように天智天皇の味方だという意味になります。

 

小野小町に芍薬の花を届けて求愛したが、その愛が実らずに死んでしまった深草少将(ふかくさしょうしょう)の「百夜通い伝説」(ももよがよいでんせつ)は、持統天皇を皇后にしながらも、皇室から追い出されてしまった天武天皇を揶揄した物語のようです。

 

深草少将の名前は法華経の守護神の深沙大将(じんじゃたいしょう)のパロディで、「深草」は天武天皇を表す「竹」を意味します。

 

河童は中国の河伯(かはく)という川の神様を日本風に作り替えた妖怪で、それを深沙大将に充てたのだと思います。

 

深沙大将は毘沙門天の化身だとされ、天武天皇を表すからで、素戔嗚尊を象徴するキュウリが大好物で、亀のような甲羅を背負い水犀のような姿をして、頭には皿を乗せていて、その皿が割れると死ぬというユーモラスな特徴を持ちます。

 

皿は聖杯であり、イエス・キリストとマグダラのマリアの子孫のサラを意味するのだと思います。

 

芍薬は「木」ではなく「草」で、「立てば芍薬」と言われるように「断つ」(たつ)という意味が含まれているようです。

 

小野氏は、一番小さい各務野(かかみの)を表しているのかもしれません。

 

天橋立で股のぞきをしたという小野小町は、藤原不比等に力を持たせて天智天皇と天武天皇の立場を「榊」のように逆さまにしたという意味で持統天皇がモデルなのかもしれません。

 

小野は御野(おの)の漢字を置き換えたもので、元々は御野(みの)の意味を分かりにくくする目的で変えられたのだと思います。

 

これは平城京などの遺跡などから美濃(みのう)が御野(みの)と書かれていた時期もあり、三上(みかみ)が御上(みかみ)と書かれていたのと同じで、それらが最終的に妻を表す龗神(おかみのかみ)になります。

 

墓石に使う御影石(みかげいし)も持統天皇を表す石と言えると思います。

 

小(お)は尾(お)で、長尾神社の縁起や、八尾のように大神神社(天智天皇)の頭ではない尾(持統天皇)である事を意味するようです。

 

壬申の乱を成功させた天武天皇が最初に美濃の美努王(みぬおう)の氏族を味方につけたのも、かれらが勾玉(橘)の氏族で、推古天皇に代わるイエス・キリストの血を引く氏族だったからだと思います。

大和三山は、耳成山(みみなしやま)、天香具山(あまのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)の三つです。

 

耳成山は、本来は耳無山(みみなしやま)です。

 

天香具山は、匂いを嗅ぐ山で別名を鼻成山(はななすやま)と言いますが、これも本来は鼻無山(はななしやま)かもしれません。

 

畝傍山は、麓に深田池(ふかだいけ)という池があって、深田(ふかだ)とは低湿地で水が噴き出る田んぼを指します。

 

沼田(ぬまた)や、水田(みずた)も同じ意味を持ちますが、「吹田」(ふきた)は砂が吹き上がる乾燥した田んぼで、逆の意味になるそうです。

 

大阪の垂水神社のある「吹田」(すいた)は、「吹田」(ふきた)と書きますが、読みは「吹田」(すいた)で、水が豊富な低湿地の「水田」(すいた)を表していると思われます。

 

ここでも、真逆の両方の意味を持たせてあります。

 

この地域は、元々は「深田」(ふかだ)という地名で、水が豊富な低湿地だったそうです。

 

「大君は 神にしませば 赤駒の 腹這う田井を 都となしつ」

 

天武天皇は赤い馬の脚が水に浸かって腹までくるような深い田んぼを都にしたという大伴御行の歌で、ここから天武天皇のシンボルが「赤い馬」と「深田」だとラベリングされてしまいます。

 

素戔嗚尊が斑の馬の皮を剥いで赤い血の馬にして天照大神の機織り小屋に投げ込んだという古事記の意味が分かります。

 

斑(まだら)は黒と白の間の色で、そもそもはユダヤ人のヤコブがラバンから手に入れた斑の羊を意味すると思いますが、玄武(黒)と白虎(白)を合わせた色で亀虎(キトラ)を意味します。

 

奈良の明日香村のキトラ古墳の壁画に描かれている白虎(虎)が通常は南の鳳凰の方を向くはずが北の玄武(亀)の方を向いているので亀虎(キトラ)という地名になっているのではないかとも言われています。

 

被葬者は阿部御主人(あべのみうし)ではないかと言われていて、蘇我倉山田石川麻呂に天武天皇と天智天皇の血を加えた斑の馬になります。

 

この馬を妃にしたのが藤原豊成で出来たのが中将姫で、長尾街道の當麻寺になります。

 

壁画の向きに意味があるのかは分からないですが、和歌山県の神社も通常の神社は玄武(蘇我倉山田石川麻呂)の北に向かって拝む形なのが、鳳凰の南に向かって拝む形になっているので、機織りの梭(ひ)が陰部に刺さって死んだ天照大神の妹とされる稚日女尊(わかひるめのみこと)、別名を丹生都比賣(にうつひめ)と呼び、推古天皇を表す神様としたようです。

 

蘇我倉山田石川麻呂は、おそらく推古天皇と同族で、額田王は推古天皇、鏡王女は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘を表した架空の人物だと私は思います。

 

高松塚古墳の被葬者の有力候補は忍壁皇子ですが、こちらは天武天皇と蘇我倉山田石川麻呂の血を引く皇子だと思われますが、自分の子を皇位継承者としたい持統天皇からは嫌われたようですが、文武天皇が即位する事に賛成してからは優遇されて天皇に次ぐ地位に登ったとされます。

 

高松塚古墳の壁画の白虎は文化庁が管理する間にカビが生え、消失しかけていますが、その絵柄は南の鳳凰の方を向いていたようです。

 

持統天皇がそれだけ苦労して即位させた文武天皇に藤原不比等は藤原宮子という海女さんの伝説のある娘を嫁がせて立身出世します。

 

この海女さんの伝説は、天武天皇の氏族に越の海洋民族を橘氏を通して嫁がせて、後付で関係性を持たせたのだと思います。

 

ヤマトタケルの妻である弟橘媛(おとたちばなひめ)が水に人柱となって沈んでいくのも時系列で変わっていった持統天皇を表しているのだと思います。

 

宮簀媛(みやずひめ)は物部氏のヤマタノオロチの尾を割って出て来た草薙剣(くさなぎのつるぎ)で尾割(おわり)=尾張(おわり)で、素戔嗚尊(天武天皇)に権力を持たせた尾張氏の祖であり、持統天皇を意味します。

 

この頃は「熱田」(あつた)で火を表し、晴れを表す白馬どころではなく、炎天下の赤馬だったのかもしれません。

 

畝傍山は別名を瑞山(みずやま)とも言いますが、これは「見ず山」という意味で、本来は目無山(めなしやま)かもしれません。

 

これで、耳、鼻、目と揃いました。

 

無し無しづくめになりましたが、「無し」は「成し」でもあるようです。

 

有無を離ると述べたもう、平等覚(びょうどうかく)に帰命(きみょう)せよ…

 

結局は、阿弥陀如来(皇極天皇)の大乗仏教の船に乗って、金毘羅(天智天皇)さんという大きな和邇の船に乗って春日に纏められてしまいます。

 

称徳天皇の時代に皇極天皇の葛城氏の氏族が土佐から許されて奈良の御所(ごせ)に戻されますが、ここは巨勢氏(蘇我倉山田石川麻呂)の本拠地で、葛城氏に巨勢氏を嫁がせたのが和邇氏で、そこに小野氏や、従来の春日氏、蘇我氏、秦氏などを嫁がせて春日から出たように作り替えたのだと思います。

 

阿弥陀如来の18番の誓願を「おはこ」と呼びますが、全ての人を救済する器(船)を意味するようです。

 

ユダヤ教の契約の箱で、三種の神器を入れる器です。

 

大阪の最南端にある阪南市箱作にある加茂神社には箱作りの地名の由来として京都の下鴨神社の社殿を改築する時に、ご神体を奉安する御霊箱を新たに造り、古い箱の方は加茂川に流したところ、淀川を下って当地に漂着して箱着里(はこつくり)と呼ぶようになったとされています。

 

下鴨神社は親である玉依姫で、恩智神社と同じ春日氏の遠智娘を表します。

 

上賀茂神社は子である持統天皇で、親より子の方が偉くなっています。

 

和邇氏を表す王仁吉師(わにきし)は儒教を日本に伝えた学者で、儒教の一番の徳目は「仁」(愛)なのですが、他の宗教にはない徳目として「孝」(こう)が挙げられます。

 

親を敬う心です。

 

この為、御所市の鴨神社は、高鴨神社(上)、葛木御歳神社(中)、鴨都波神社(下)と三つの神社が鴨神社とされます。

 

高鴨神社に祀られているのが阿遅志貴高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)で、名前が違うので分かりにくくしてありますが、蘇我倉山田石川麻呂の事で、親が上になっています。

 

葛木御歳神社は御歳神で弁財天(持統天皇)の事なのですが、葛木が頭に付くと皇極天皇や天智天皇の意味が加わります。

 

しかも、鴨神社なのに鴨と名前に付かないのも、皇極天皇が念頭にあるからだと思います。

 

鴨都波神社は事代主命(藤原鎌足)や、下照姫命(推古天皇)のようです。

 

福岡などでは下照姫を祀る神社は吉祥天社とも呼ばれていますが、一時期は弁財天を表す持統天皇も、推古天皇と共に下照姫に加えられそうになっていたのだと思います。

 

持統天皇の事を書くと時系列で立場が変わるので混乱が生じやすいです。

 

藤原氏達が天武天皇が崩御した後に、天武天皇の血を皇室から排除したように、皇室の血を引く氏族を残しておくと藤原氏も排除される可能性があったので、全ての氏族を春日氏の大きな船に乗せたというのが実情でしょうか…?

階段を猫が登っています。

着きました。

 

耳成山山口神社です。

 

御所には鴨山口神社と呼ばれる神社もあり、大山祇神と天照大神が祀られていて、十四社ある山口神社の総本社になるようです。

 

こちらが元々の鴨都波神社(下)に対しての上鴨社とよばれていたそうで、高鴨神社(上)と葛木御歳神社(中)は後から造られたのだと思います。

 

奈良仏教である小乗仏教のカモの小舟は、平安仏教である大乗仏教のワニの大舟と一つになるようです。

 

他人を救済するというキリスト教の隣人愛が仏教を大きく変革させた結果だと思われます。

これは、算額(さんがく)と呼ばれるもので、江戸時代の日本で、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものです。

 

平面幾何に関する算額が多く、数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納しています。

 

数学の問題が解けたことを神仏に感謝する風習で、日本では古くから和算(わさん)と呼ばれる数学が発達しました。
額縁では四つの問題が解かれているようです。

あ、猫が入って来ました。

どこへ行くんでしょう?

こっちにも違う猫が…

それにしても、猫だらけです。

柊あおいの漫画作品をスタジオジブリが映画にした「耳をすませば」を思い出します。

 

主人公が月島雫(つきしましずく)という女の子で、ムーンという猫が、主人公と同じ電車に乗り込んできて…

 

バロンはいつ出てくるのでしょうか?

とりあえず、拝殿なので、猫は置いといて、お参りします。

 

ご祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)と、天皇家の祖神、高木の高御産霊神(たかみむすびのかみ)です。

 

大山祇神(おおやまつみのかみ)は、モーセの旧約聖書の「原罪」を表し、藤原鎌足で恵比寿さんが「水」を意味し、大山咋神(おおやまくいのかみ)は、イエス・キリストの新約聖書の「救済」を表し、蘇我倉山田石川麻呂で少彦名神が「火」を意味するのだと思います。

 

蘇我倉山田石川麻呂の子孫が鏡王女の春日氏となり、その一族である美濃の「真桑瓜」の美努王(みぬおう)の子孫が橘氏となり、天照大神の八尺瓊勾玉を造る氏族となります。

 

天智天皇が蘇我入鹿の首をはねた後、すぐに天皇として即位せずに皇極天皇の兄の孝徳天皇に一旦、皇位を譲りますが、私は、この孝徳天皇が本当は蘇我倉山田石川麻呂の事で、日本で一番巨大な仁徳天皇陵は孝徳天皇陵だと思っています。

 

出雲大社で祀られている大国主命も、蘇我倉山田石川麻呂の一族が嫁いだ物部氏系の敏達天皇を表しているのだと思います。

 

おそらく、推古天皇と蘇我倉山田石川麻呂は同族で血縁関係があったからで、イエス・キリストの血を引く一族だったのだと思います。

 

そして、皇位を譲る見返りに蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(鏡王女)を天智天皇が妃に貰い持統天皇を生み、同じイエス・キリストの血を引く推古天皇の後継者にしようとしたのだと思います。

 

兄姫が持統天皇で、乙姫が推古天皇です。

 

しかし、壬申の乱で勝利した天武天皇が持統天皇を妃にしてしまったので、藤原四兄弟は天智天皇の血を引く光仁天皇に百済の王族の高野新笠を妃にして第50代天皇の桓武天皇が誕生して、天武天皇の血を排除する事に成功します。

 

石上神宮(いそのかみじんぐう)の「石」(いそ)には「五十」(いそ)という意味が籠められているのだと思います。

 

万葉集に出てくる額田王と鏡王女は、推古天皇と遠智娘をモデルにした架空の人物だと思いますが、関係性の中に真実が含まれているのだと思います。

 

美濃は藤原京の時代の遺跡からは三野(みの)と記載され、平城京の時代の遺跡からは御野(みの)と表記されています。

 

御野は御野(おの)であり、小野小町の「小野」(おの)と同じ意味があります。

 

小野氏の小野妹子は橘氏と同じ春日老女子(かすがのおみなご)の血を引く氏族で、勾玉の氏族になります。

 

遠智娘を祀る恩智神社(おんちじんじゃ)の「恩」(おん)は真言宗の真言の始まりを表す「唵」(おん)と同じで、宇宙の創造神のブラフマンの「水」を表し、石上神宮のひふみ祝詞の日の神、月の神の恩寵によって生かされている「恩」(おん)を意味するのかもしれません。

 

真言宗の真言の終わりを表す「蘇婆訶」(そわか)はアグニ(迦具土神)の妻のスヴァーハーの「火」と「供え物」の「食料」を表します。

 

スヴァ―ハーはパールバティーと習合してアグニはシヴァと習合しますが、供え物にはジャータカ物語で自分の命を犠牲にして焼身自殺をした兎の意味や、パールバティーの前世である焼身自殺のサティーの意味が含まれているように思います。

 

命を続けていくには「水」と「火」と「食料」が欠かせないからだと思います。

 

鏡を表す恩智神社の神様は高安郷の七つの村を所有していたようですが、そのうちにの六つの村を玉祖神社に譲ったそうで勾玉が出雲大社、鏡が伊勢神宮という意味なのかもしれません。

 

こちらは、大和国(奈良)の山口社六社(飛鳥、石村、畝傍、忍坂、長谷、耳成)のうちの1社です。

 

六は亀甲紋の「亀」で推古天皇のシンボルで、五は五芒星の「鶴」で、亀に乗る浦島太郎で、藤原氏のシンボルです。

 

「鶴」を表す継体天皇(けいたいてんのう)は手白香皇女(たしらかのひめみこ)を妃に貰い安閑天皇(あんかんてんのう)が生まれ、明治以前の本地垂迹では蔵王権現と同一視されました。

 

手白香皇女は「玉手箱」を意味し、元々は「持統天皇」を表していたようですが、同族の勾玉の氏族である「県犬養三千代」に置き換えられたようで、文楽や歌舞伎の演目で知られる摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうつじ)の藤原不比等を象徴する俊徳丸(しゅんとくまる)と、県犬養三千代を象徴する玉手御前の話のように、県犬養三千代の子孫である橘嘉智子(たちばなかちこ)を嵯峨天皇(さがてんのう)に嫁がせて遠智娘の春日(玉依姫)の血を皇室に繋いだのだと思います。

 

嵯峨天皇が継体天皇のモデルであり、諱が「神野」(かみの)と呼ばれる所以で、仁明天皇が安閑天皇のモデルで、大阪の大きい坂(さか)は嵯峨天皇の嵯峨(さが)で、持統天皇の小さい坂の小坂(こさか)や、尾坂(おさか)が元々の大阪の呼び名だったのだと思います。

 

小坂は奈良坂(ならさか)で、平城天皇と嵯峨天皇の平城(なら)、嵯峨(さか)で、この世を表す京都とあの世を表す奈良の境になります。

 

平城天皇と嵯峨天皇は共に桓武天皇の子供で、母方の藤原乙牟漏(ふじわらおとむろ)は阿倍古美奈(あべのこみな)の娘で、阿倍御主人(あべのみうし)の子孫になり、一応は持統天皇の血を引く形にはなりますが、勾玉の橘氏の血を入れる事で、より坂が教化されたのかもしれません。

 

小坂が大坂に変わった瞬間です。

 

その根拠は、平城天皇の孫である在原業平(ありわらのなりひら)が建てた不退転法輪寺(ふたいてんほうりんじ)です。

 

悟りの段階は全部で52あり、50までは後ろを振り返って決意が揺らぎ煩悩を抑える事が出来ず坂道を転げ落ちてしまう可能性があるのですが、50を越えると、もう転げ落ちる心配はないとして不退転位(ふたいてんい)と呼ばれます。

 

つまり、このお寺の名前はここから付けられた名前で、最高位の52段を第52代天皇の嵯峨天皇に充て、第51代天皇の平城天皇は一歩手前でしたが、それでも不退転の位までは辿り着いたという事です。

 

実際の悟りでは52の段階まで達成した人物はお釈迦様だけだそうで、それ以外の人物で一番高い段階に登ったのは空を説いた中観派(ちゅうがんは)の龍樹(りゅうじゅ)と、空ではないものとして心があるとした唯識派(ゆいしきは)の無著(むじゃく)の二人だけだとされ、41段だと言われます。

 

天皇で41段を表すのが第41代天皇の持統天皇です。

 

空を表す文殊菩薩や、弁財天を意味し、上賀茂神社の賀茂別雷神で、中観派を表す中田神社で祀られます。

 

その中観派を否定した唯識派を表す神社が茨木童子の鬼の腕を斬った渡辺綱の多田神社(ただじんじゃ)です。

 

多田は唯(ただ)心だけが存在する多田(ただ)で、多(た)は蘇我倉山田石川麻呂の多氏(たし)を意味するのだと思います。

 

唯識派は法相宗として聖徳太子の法隆寺や、藤原氏の興福寺、坂上田村麻呂の清水寺へと伝わります。

 

全て持統天皇繋がりというわけです。

 

因みに素戔嗚尊を祀る八坂神社の八坂(やさか)は、正式には「弥栄」(いやさか)で、弥(いや)は「嫌」(いや)という意味で、イエスではないノーの神様という意味になるようです。

 

弥坂(みさか)=三坂(みさか)は三坂神社など、道反神(ちがえしのかみ)としてこの世とあの世を区切った「巌」(いわ)とされ、海に沈んで岩清水八幡宮(いわしずみはちまんぐう)が生まれます。

 

清水(しずみ)は志都美(しずみ)とも書かれ、志都美八幡(しずみはちまん)とも呼ばれます。

 

「巌」は竜宮城に行く「亀」であり、「岩船」で、磐長姫(いわながひめ)の「長」は「亀」(磐)の甲羅に生える「藻」で、「毛」を表し、栃木県や群馬県の「毛野」(けの)を築き、イエス・キリストを表すイルカを食料だと言った気比大神(けひのおおかみ)は毛日大神(けひのおおかみ)で、兎に生えた「角」を意味します。

 

首楞厳経(しゅりょうごんきょう)の亀毛兎角(きもうとかく)として、存在を打ち消された持統天皇を象徴するようです。

 

「角」はツヌガアラシトとして神功皇后というリーダーを象徴しますが、持統天皇から皇極天皇にモデルが変わったので「角」を失った事になります。

 

お坊さんの剃髪や、カトリックのトンスラなど、狭穂姫(さほひめ)の兄妹愛の為に髪を捨てる神話と同じで、マグダラのマリアのシンボルの「長い髪」からの脱却が目的だと思われます。

 

海の底に沈んだ竜宮城の乙姫を表す藤原宮子の髪長姫伝説も同じです。

 

藤原宮子と共に天武・持統天皇の氏族は海女(あま)として越の氏族に組み込まれてしまったようです。

 

大海人皇子と呼ばれていたのではなく、後付けで大海人皇子にしたのだと思います。

 

八幡宮の本家本元は宇佐八幡宮や宇美八幡宮でもなく、高山八幡宮で天武天皇が応神天皇だったのだと思います。

 

嵯峨天皇を表す大坂は応神天皇の来孫である継体天皇の坂で「応坂」(おうさか)の意味が含まれていて、「応」(おう)じるイエスの坂という意味になるようです。

 

ダジャレのような話ですが、読みが同じ言葉が起こす勘違いなどの喜劇を語る落語も、常山紀談(じょうざんきだん)の太田道灌(おおたどうかん)の「実の」(みの)を「蓑」(みの)と掛けた山吹の歌がルーツで、「美濃」(みのう)を象徴しているのだと思います。

 

山吹は橘諸兄を表す花で、「八重」(やえ)の「弥栄」(やえ)を意味します。

 

つまり、万葉集などの歌道もダジャレのように複数の意味を掛け合わせた歌が良い歌で、漢字より読みの方が重要だったりします。

 

これは、日本語の特色で、「ひふみ祝詞」のように48語の言葉の、一つ一つが完成された意味を持つ事に起因しています。

 

例えば「ひ」は「火」を表し、「太陽」や「天照大神」を意味し、「ふ」は「風」を表し、「星」や「素戔嗚尊」を意味し、この二柱の神様が誓約を交わし、生まれたのが「み」で「水」を表し、「宗像三女神」や、「月」や「月読命」などを意味します。

 

一つで完成された神様さえも表す言葉なので、それらの集合体である日本語は沢山の意味を持つようになります。

 

この為、同じ読みを持つ言葉は個々では微妙な違いがあったとしても太極的に見ると同じ意味を持つものと考えられます。

 

漢字は当て字なので漢字の意味に引っ張られると本当の真意を見逃す可能性があり、太秦(うずまさ)のように明らかに当て字で、どう考えても違う漢字が当てられている時には、漢字の意味の方に注目すると昔の人の意思を理解出来たりします。

 

元々、言葉は記号論で、全ての人が見解を一致させる事などあり得るはずが無いので、大まかな一致で充分で、「木を見ず森を見て判断する」のが正解だと思います。

 

勾玉の話に戻りますが、玉造稲荷神社の界隈では黒門市場の元である黒門白瓜が作られて、奈良漬けの材料とされました。

 

瓜は救世主のシンボルなのに酒粕に漬けられてしまいます。

 

漬物を「香の物」(こうのもの)と呼んだのはヤマトタケルです。

 

ヤマトタケルに野蒜(のびる)を目にぶつけられて死んでしまった坂の神様の白鹿は持統天皇の事で、ヤマトタケルをぼっこぼこにした白猪の神様は推古天皇の事で、藤井寺の白猪氏は、藤原氏が推古天皇の氏族と結び付いたマグダラのマリアの子孫です。

 

本家本元は強いという事をパロディにしたのだと思います。

 

野蒜はユリ科の植物で、ニラ、にんにく、らっきょう、玉ねぎ、あさつきなど、目に染みる硫化アリルを含む植物です。

 

目から出た涙を表す泣沢女神(なきさわめのかみ)や、雉の鳴女(なきめ)なども持統天皇を意味するのかもしれません。

 

清水寺の坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)も、妻が三善高子(みよしたかこ)という女性で、鈴鹿御前と伝説で語られるように、持統天皇の氏族を妃に貰って「坂上」と名乗るようになったようで、元々は東漢駒(やまとのあやのこま)で、清和源氏の母方の氏族になり、鬼の茨木童子(いばらぎどうし)の腕を斬ったとされる頼光四天王の渡辺綱(わたなべつな)が大阪の北に位置する摂津の坐摩神社(いかすりじんじゃ)で祀られる形になります。

 

茨木童子は男の鬼ですが、斬り落とされた腕は持統天皇の玉手を表していたのだと思います。

 

最終的には渡辺綱の伯母の姿に化けた茨木童子が腕を取り返しますが、孝の徳を渡辺綱が尊重した結果で、渡辺綱の母方の血筋を辿ると持統天皇に行き着くからこのような物語を創られたのだと思います。

 

橘嘉智子の母は田口氏と言われ、大阪の枚方市に田口という地名があり、そこにお墓があります。

 

蘇我倉山田石川麻呂の山田神社や、王仁吉師のお墓などがあるすぐ近くにあります。

 

福井県に鹿蒜田口神社(かひるたぐちじんじゃ)という神社があったりする事から、おそらく、田口も持統天皇を表しているのだろうと思います。

 

中田神社や多田神社の口で、そのルーツは山口神社だと思われます。

 

大きな山の口だった持統天皇が、推古天皇の雨樋の樋口と同じように小さな田の口になった事を意味しているのかもしれません。

 

しかし、長坂野神社や、長坂大歳神社など持統天皇が坂の中では一番長い坂なのかもしれません。

 

坂は天国と地獄の間に位置する煉獄(れんごく)で、ネストリウス派(秦氏)が無いと否定したカトリックの教義です。

 

追放されたネストリウス派は景教徒として5世紀に中央アジアのアム川流域に伝わり、ソグド人(蘇我氏)の仏教と合流して、6世紀にシルクロードを辿って北魏に入り、蚕をビザンツ帝国に伝えました。

 

日本の勾玉は蘇我氏がシルクロードを通じて世界に流通させたようで、シルクロードのオアシス都市として栄えたウイグル自治区の和田(ホータン)も勾玉の聖地とされ、頭に鳳凰の冠を被った毘沙門天が神様として信仰されて、それがインドに伝わりヒンドゥー教のヴィシュヌ神となりました。

 

そんな蘇我氏の形跡を跡形もなく消す為には巨大な聖徳太子という架空の人物が必要不可欠だったのだと思います。

 

奈良の桜井市に長谷寺がありますが、その北側に「まほろば湖」と「笠山」(かさやま)があります。

 

元々は天照大神の「八咫鏡」は笠縫邑(かさぬいむら)にあったとされます。

 

「笠山」はイエス・キリスト、「まほろば湖」はマグダラのマリアで、「笠」(かさ)の逆さ言葉が「坂」(さか)です。

 

ヨナ書でヨナを強い日差しから守った「瓜」が「救世主」に例えられる事から「笠」も同じ意味を持つものと考えたのかもしれません。

 

毘沙門天が祀られていた佐保山(さほやま)を均(なら)して岡にして平城山(ならやま)と呼び、代わりに、若草山、春日山、高円山の三つの山を「三笠山」(みかさやま)と呼び、当初は「宗像三女神」を表したのだと思います。

 

木花咲耶姫(桜)を祀る「富士山」を映す「富士八海」も「八咫鏡」を意味します。

 

「坂」には色んな意味が籠められているようです。

高皇産霊大神(たかみむすびおおかみ)は素戔嗚尊を象徴する天武天皇の事で、天逆鉾(あまのさかほこ)や上下を反転させる榊(さかき)など逆さまの神様を意味するようです。

 

自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるというイエス・キリストの言葉が背景にあるのかもしれません。

 

大阪の中心地は元々は、刀を造る鍛冶職人が多く住む堺市で、「堺」(さかい)とは「摂津」(せっつ)、「河内」(かわち)、「和泉」(いずみ)の三つの国の「境」(さかい)を意味しました。

 

「堺」は長尾街道の尾っぽの終着点で、持統天皇を意味する「桜井」(さくらい)が本来の地名だったのかもしれません。

 

「桜」が「坂」に変わった理由は、天武天皇と結び付いた為に持統天皇も天皇家から追い出さないといけなくなったからです。

 

堺市には「深井」(ふかい)という地名があり、行基が堀ったとされる深い井戸が何処かにあるとされますが、それが何処なのかは、はっきりとは分かっていません。

 

おそらく、私が思うには大野寺跡の十三重の土塔のある場所が「桜井」の井戸だったのではないかと想像します。

 

桜が深に変えられている理由は「深」(ふか)が「鮫」(フカ)や「八尋鰐」(やひろわに)など皇極天皇を表す言葉だからだと思われます。

 

何故、井戸が境に置かれるのかというと、旧約聖書の「ヤコブの井戸」が関係しているようです。

 

「ヤコブの井戸」はイエス・キリストがサマリアの女(マグダラのマリア)と初めて出会った場所であり、キリスト教がユダヤ人の宗教から飛び出して、異教徒に布教する切っ掛けともなり、ヤペテ(白人)の宗教として地位を築く切っ掛けにもなった源泉でもあります。

 

また、サマリア人は日本人と同じく北イスラエル王国の末裔なので、「ヤコブの井戸」はユダヤ人と日本人を繋ぐ源泉でもあるわけです。

 

また、ヤコブの兄であるエサウの子孫が造ったエジプトとユダヤ人を繋ぐヨセフを象徴する井戸でもあり、「ヤコブの井戸」はヨセフの息子のエフライム族(蘇我氏)とマナセ族(秦氏)の国の境界線に存在したとされます。

 

日本人は、そこにダン族(物部氏)も加えて、桜井(三井)としたのだと思います。

 

もしも、藤原四兄弟と百済の王族が天武天皇の孫であった長屋王の一族を皇室から追い出す事に成功していなければ、今頃、大阪は桜井と呼ばれていたかもしれません。

 

13という数字は、ユダヤ教ではヤコブの息子の12人に娘のディナを加えた数ですが、キリスト教ではイエス・キリストの十二使徒にマグダラのマリアを加えた数になり、カトリックからは忌み数として金星と共に避けられるようになります。

 

つまり、13という数字は、ディナやマグダラのマリアなど女性を加えるか加えないかの違いだという事です。

 

天照大神という女性の神様をトップに担ぎ上げた日本人は13は忌み数ではなく、聖なる数字だというわけです。

 

「ヤコブの井戸」が「縁結び」だとすると、「坂井」(境)は逆さまの井戸で「縁切り」をいみします。

 

悪縁を断ち斬る「刀」であり、良縁を守る「十字架」でもあります。

 

仏教では人は皆、仏性という仏(神)になる性質を持ち合わせていて神と人には「境」(さかい)はありません。

 

しかし、カトリックでは神と人には絶対に越えられない「境」(さかい)があり、唯一、この両方に位置するのがイエス・キリストになるようです。

 

「境」は「垣」(かき)であり、十個の「干し柿」を串で刺して草薙剣(くさなぎのつるぎ)に見立てて、鏡餅(八咫鏡)と蜜柑(八尺瓊勾玉)の間の「境」とするのも、「刀」で「悪縁を断ち切る」意味が含まれているのかもしれません。

 

祝詞に「とほかみえみため」というものがあります。

 

「とほ」が「刀」、「かみ」が「鏡」、「たま」(ため)が「玉」を表すとして40回唱えると良いとされます。

 

遠津御祖神(とほつみおやのかみ)という我々のご先祖の神様と十神様という十柱の神様を指す祝詞だとされます。

 

しかし、本当は、この遠津御祖神とは春日の恩智神社で祀られる遠智娘(おちのいらつめ)の事で、十神様とは遠智娘の更に先にある血縁であるイエス・キリストを意味しているのだと思われます。

 

何故、素戔嗚尊を表す「刀」が一番先頭に来るのかというと、平家と源氏の違いが天武天皇(素戔嗚尊)の血を引いているかいないかの違いだからだと思います。

 

平家を源氏が倒した後に、武士の魂が「刀」として神格化されていくのもここから来るのだと思います。

 

40回の意味は、「40」(しま)を表すからで、敷島(しきしま)は「40」を敷くという意味です。

 

第40代天皇の天武天皇です。

 

柿本人麻呂は持統天皇を、猿麻呂は藤原鎌足を表していて、「神」ではなく「人」である事が意味を持ちます。

 

山口県を中心に全国に人丸神社が存在し、藤原鎌足(恵比寿さん)を頂点として鍛冶の神様として祀られます。

 

壬申の乱で右大臣の中臣金(なかとみのかね)は敗れて処刑され、その子である中臣英勝(なかとみのあかつ)は千葉の九十九里浜に流罪となり、代わりに中臣大島(なかとみのおおしま)が後を引き継ぎ、天武・持統天皇に仕える形になります。

 

九十九里浜は砂鉄が多く、鍛冶職人の聖地でもあり、柿本氏は、この中臣英勝の子孫を春日氏に組み込んだのだと私は思います。

 

奈良の枕詞の「青丹よし」は奈良坂(黄泉平坂)から出土した「緑青」(ろくしょう)が由来だとされますが、不老不死を求めた秦の始皇帝の兵馬俑の地下に流れる水銀(朱沙)の「赤い丹」ではないという意味と、平安時代以降の「鉄(黒金)の刀」ではなく、古い「青銅器の剣」を意味するのだと思います。

 

奈良坂には薬師如来(イエス・キリスト)の浄瑠璃寺(じょうるりでら)があり、本来であれば「涙」を意味する「瑠璃」(るり)を枕詞にすればいいものですが、「刀」を念頭に置いて「緑青」が選ばれたようです。

 

神社が北に向かって拝む形なのも、北を目指して都を京都に遷したのも、北極星を天皇の象徴だとしたのも、北を表す玄武が黒金の「刀」を意味したからなのかもしれません。

 

イエス・キリストは剣を持つものは剣によって滅びると言われましたが、武士は自分が滅びる事を恐れず、愛する人を守る為に「刀」を取ります。

 

これが、イエス・キリストが自分を犠牲にして他人を救済する為に受け入れた「十字架」と同じ意味があるのだと日本人は考えたのかもしれません。

 

素戔嗚尊が持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)も「十字架」を表しているのかもしれないです。

 

イエス・キリストは「人の子」であり、聖書で88回記載があるように「米」(肉体)を表す食料が命を繋ぐ「生命の樹」であり、「神の子」を意味する「玉」(魂)が本質ではないという事のようです。

 

持統天皇の手が「玉手」から鬼の「岩手」に代わった理由は、盛岡の永福寺で、宝珠(玉)が皿に盛られたからのようです。

 

平家の子孫が清盛など「盛」の字を好んで使っていたのは「米」を材料とした「酒」(さか)を盛る「皿」(子孫)を意味したからのようです。

 

平家物語の鹿ケ谷(ししがたに)で、「瓶子」(へいし)を「平氏」に見立てて倒した話が載せられていますが、「提子」(ひさげ)は天武天皇、聖徳太子は調子丸(ちょうしまる)の「銚子」(ちょうし)になるのだと思います。

 

どれも、不老不死の「酒」を入れる「器」(聖杯)です。

 

永福寺の聖天さんは皇極天皇を表していて、持統天皇に代わる「境」(障壁)を取り除く「縁結び」の仏様になります。

 

堺市に櫻井神社(さくらいじんじゃ)という神社がありますが、屋根が普通のヒノキの皮ではなく、お寺で使用される瓦であったり、割拝殿の両脇の柱に四角い穴の痕跡があったりするのは、おそらく、大野寺跡の場所から移動させて材料を再利用して神社を建てたからではないかと私は思います。

 

持統天皇が宗像三女神として縁結びの「水」を表していた時代は過去のものになったという事だと思います。

 

元々は伊勢神宮内宮の五十鈴川が持統天皇のシンボルでしたが、平宗盛の親子が斬られた場所の野路(のじ)の玉川が六玉川の一つとして新しく割り当てられたようです。

 

六玉川は野田、調布、野路、高野、三島、井手の六つで、実は最後の六番目の井手(いで)が本家本元で、橘諸兄や橘嘉智子の居住地であり、桜の名所として知られました。

 

井手の玉川は推古天皇を表す木津川(橘川)の支流ですが、水深が浅い事から水無川(みながわ)と呼ばれ、ここから六月を水無月(みなづき)と呼ぶようになったのだと思います。

 

愛媛県の井手神社などでは持統天皇を表す桜の女神の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀りますが、井手(いで)の意味は射手座を表しているようです。

 

高松塚古墳やキトラ古墳の天井画の北極星と北斗七星を見ても、古代の人々の星座に対する関心が強かった事は明白で、京都が北斗を表すのと対称的に、奈良は南斗の射手座が割り当てられたのだと思います。

 

奈良時代に平城京を中心に栄えた仏教の南都六宗を、射手座の弓の部分の南斗六星が象徴しているのだろうと思いますが、射手座が本当に守っているのは南斗六星ではなく南十字星(さざんくろす)で、天の川に架かる十字架の橋である「鵲」(かささぎ)です。

 

七夕に織姫(天照大神)と彦星(素戔嗚尊)を遮っている川に橋を架ける鳥で、イエス・キリストとマグダラのマリアの子のサラ(豊受大神)を意味します。

 

天照大神が素戔嗚尊の十拳剣(とつかのつるぎ)を嚙み砕いて生まれた宗像三女神のうちの一人です。

 

大阪の鵲森宮神社(かささぎもりのみやじんじゃ)ではイエス・キリストの代わりに聖徳太子の親子が祀られていますが、森宮(もりのみや)の「森」は、木を見て森を見ずの「森」で「因縁正起」(いんねんしょうき)の「縁」(えん)を意味するのだと思います。

 

直接的原因の「因」だけに囚われて、間接的原因の「縁」を見ていない状態は、他人の声に耳を傾けていない状態と同じ事のようです。

 

橘氏の氏寺であった円堤寺(えんていじ)が元々は井堤寺(いででら)だったのも、「円」が「縁」を表し、「井」が「因」を表していたのだと思います。

 

聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の「和」も、「円」(縁)を意味しているのだと思います。

 

蘇我倉山田石川麻呂を表す「岩井」(いわい)は「祝い」、「野路井」(のろい)は「呪い」になるようです。

 

蘇我倉山田石川麻呂は大山祇神でもありますが、酒解神(さかとけのかみ)として皇極天皇と共に再び縁結びの意味を持つ事になったようです。

 

小野篁(おののたかむら)の「冥土通いの井戸」など、井戸はあの世とこの世を結ぶ境界線とされ、高皇産霊大神は異世界を結ぶ縁結びの意味合いが強くなったようです。

 

死者の通り道とされる丑寅の13時の方角に井戸を構える事は大凶とされます。

 

境界線がなくなり、死者が蘇って来る事を恐れた為だと思われます。

こちらは三棟のお稲荷さんの社です。

社の中にも猫が入ったり出たりしています。

 

なんだか猫を拝んでいる気分です。

香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)の金比羅(こんぴら)さんです。

 

主祭神は大物主命で、天智天皇を表します。

 

金属の刀と書きますが、海上安全を守護する神様で、クベーラと呼ばれるヒンドゥー教のワニの神様が、日本に入って来て金毘羅さんと呼ばれます。

 

海の神様なので、龍神の大山祇神(おおやまつみのかみ)とも習合した八尋鰐(やひろわに)の神様です。

 

和邇氏の祖神です。

 

クベーラは蛟龍(こうりゅう)とも呼び、麒麟(きりん)に代わる黄龍(こうりゅう)の意味も含んでいるのかもしれません。

 

広隆寺の広隆(こうりゅう)も北を守る金毘羅さんを意識してのネーミングなのかもしれないです。

 

日本では毘沙門天と多聞天は同じ仏様とされていますが、本来は別の神様で、習合されているのは日本だけのようです。

 

ワニが多聞天と「耳」が良くなった理由は、獲物から気が付かれないように視界の悪い泥の中に姿を隠すからで、パシャパシャと水面のわずかな音も聞き逃さないように聴覚が発達したからです。

 

実際、ワニは音を電気信号に変えて脳に届ける有毛細胞が歳を取っても衰えないようで、難聴の人の病気を治すヒントになるのではないかとワニの聴覚が研究されているようです。

 

広隆寺も元々は高隆寺(こうりゅうじ)で天武天皇を表していたのかもしれません。

 

それが、皇極天皇に習合して「高」(こう)は白龍大神の文字となり、皇極天皇が天智天皇や持統天皇の代わりに物部氏を代表する「龍」(鰐)になり、持統天皇は天智天皇と天武天皇を使いとする八大龍王弁財天ではなく、「兎」(鴨)に変えられたのかもしれません。

 

対馬では大型の船を「ワニ」と呼び、小型の船を「カモ」と呼びます。

 

「対馬」(大)と「壱岐」(小)は朝鮮半島から日本に渡ってくる船のようなもので元々は「天武天皇」(大)と「持統天皇」(小)を表していたのかもしれません。

 

因幡の白兎がワニに皮を剥れて赤兎になるのは葛城氏のお陰で海を渡って秦氏が日本に来たのに蘇我氏に染まるという事だったんだと思います。

 

だけど大国主命によって皇極天皇と習合することにより、元の白兎の秦氏に戻れたという事なんでしょう…

 

斎宮を表す、かぐや姫の竹生島の弁財天も、天智天皇を表す「松」と関係を持つと「枯れ松弁財天」や「下り松弁財天」や「松橋弁財天」になったりとろくなことがないです。

 

岸和田の民話の松と弁財天では、最終的には若狭に姿を隠すというもので、九頭龍川(くずりゅうがわ)の龍神と習合させられた事を示唆しているみたいです。

 

高松市のかるたに、「物忌みの 哀れ止める 弁財天」というものがあるようですが、弁財天を上手く言い表しているように思います。

 

讃岐は、かぐや姫の翁の里で、斎宮の忌部氏の始まりの里です。

 

私は伊勢神宮のある「三重県」の地名の由来は、古事記に書かれているような伊吹山の白猪に素手で立ち向かったヤマトタケルが返り討ちにあって、瀕死の重傷を負い、必死で三重まで逃走するが途中で力尽き、足を「三重」(みえ)に折り勾げて死んだ事が理由ではないと思っています。

 

「三重」(みえ)は本当は「三重」(みつえ)という読みが正しく、神に仕える斎宮の「御杖」(みつえ)を表し、姫蹈鞴五十鈴(ひめたたらいすずひめ)の笹百合(ささゆり)=「三枝」(さいぐさ)の「三枝」(みつえ)が語源だと私は思っています。

 

「杖」が祭祀を表し、当初はアロンの杖のアーモンドと近縁な「桜」が

斎宮のシンボルだったのかもしれませんが、「桜」の女神の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が「火」の中で三人の食物神の子を生むように、火葬された持統天皇を表していたのだと思います。

 

三人の食物神は山幸彦(物部氏)と海幸彦(蘇我氏)と、もう一人は記述がありませんが、私は川幸彦(秦氏)だと思っています。

 

京都の桂川の嵯峨の土地に住んで、川の水で米を育てた秦氏を意味するのだと思います。

 

斎宮の始祖である倭姫(やまとひめ)はもちろん弁財天のモデルである持統天皇で、ヤマトタケルに登場する女性の倭姫、宮簀姫(みやずひめ)、弟橘姫(おとたちばなひめ)などは時系列に変わっていった持統天皇を表しているのだと思います。

 

さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問いし君はも

 

これは弟橘姫の歌ですが、ヤマトタケルの持つ三種の神器の「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)が、天武天皇の子孫を表す「草」を薙ぎ倒す「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と名前が変わったシーンを歌ったものです。

 

弟橘姫のモデルは持統天皇(相模)、ヤマトタケルのモデルは弟の健皇子(武蔵)だと私は思っています。

 

「相模」(さがみ)は「三笠」(みかさ)の逆さ言葉で、元々は「沙神」(さがみ)や、「三神」(さがみ)など持統天皇を意味した地名だったのだと思われますが、「武蔵」(むさし)と一つの国になって相武(さがむ)となります。

 

「神奈川」(かながわ)の地名の由来は、橘嘉智子(たちばなかちこ)が九相図(くそうず)を描かせた帷子ノ辻(かたびらのつじ)を象徴する「帷子川」(かたびらがわ)に火山灰の鉄分が酸化して赤土となった関東ローム層が溶け出して赤金色に染まった事から「金川」(かながわ)となり、現在の県名になったというものです。

 

「三の蛇」(相模)と「六の亀」(武蔵)が一つになって「三六菩薩」(弥勒菩薩)の「玄武」(げんぶ)が生まれ、「3+6=9」となり、「相模」の漢字の意味は「九相図」が「相」(そう)の「模」(手本)という事のようです。

 

「相模」が「身狭上」(むさかみ)、「武蔵」が「身狭下」(むさした)だったのが統一されて「相武」(さがむ)となったようです。

 

橘嘉智子は仏教を深く信仰し、日本で一番最初の禅宗のお寺である檀林寺(だんりんじ)というお寺を建て、檀林皇后(だんりんこうごう)とも呼ばれた女性です。

 

檀林寺は今はありませんが、その跡地に臨済宗(りんざいしゅう)の総本山の天龍寺が建てられています。

 

臨済宗は一休さんでもお馴染みの室町時代の武家に信仰された仏教で、「刀」と深く関わる武士道のルーツとも言える宗教です。

 

しかし、私は元々は「帷子川」ではなく、「相模川」(さがみがわ)が「神奈川」の地名の由来ではないかと思います。

 

「相模川」は山梨県内では「桂川」(かつらがわ)と呼ばれます。

 

京都の淀川水系の「桂川」と同じ名前で、和邇氏の金毘羅さんや、阿弥陀如来など皇極天皇を表す川になります。

 

箱根神社のご祭神の「火遠理命」(天智天皇)、「木花咲耶姫」(持統天皇)、「瓊瓊杵尊」(天武天皇)の三神は、「月読命」、「天照大神」、「素戔嗚尊」と置き換える事も出来ますし、「物部氏」、「秦氏」、「蘇我氏」の関係でもあり、三種の神器の「とほ」(刀)、「かみ」(鏡)、「たま」(玉)の関係でもあります。

 

箱根(はこね)とは鳳凰が守る「契約の箱」の根本で、箱根権現の本地垂迹が阿弥陀如来だとされ、木花咲耶姫の本地垂迹が大日如来だとされたのは元々は持統天皇がイエス・キリストの血を引く天照大神のモデルだったからだと思われます。

 

現在は、箱根の坂から見下ろす国「坂見」(さかみ)が「相模」(さがみ)の語源とも考えられています。

 

「相模」(さがみ)は元々は「御神」(みかみ)であり、桜の木花咲耶姫の「美」(み)であり、持統天皇を表していたのだと思われますが、応神天皇を産んだ「産み」(うみ)の宇美八幡宮(うみはちまんぐう)はイエス・キリストを産んだ「聖母マリア」を表す「皇極天皇」と、兎の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の「佐」(さ)は「助ける」、「補佐する」という意味で「マグダラのマリア」を表す「持統天皇」と、「佐」(さ)と「美」(み)は区別されるようになったようです。

 

「三上」(みかみ)、「逆さ」(さかさ)、「御加護」(ごかご)、

「御顔」(おかお)など、上下が無く、どちらから読んでも同じ意味になる言葉を回文(かいぶん)と言います。

 

能(のう)など「面」(めん)を着ける芸能を藤原氏が発展させたのは「御顔」(おかお)の「御」(お)が三輪神社を「頭」とする長尾神社の「尾」(お)のように、天智天皇を「頭」とする「尾」が最終的な持統天皇の存在意義になるからだと思います。

 

小野小町(おののこまち)の「小」(お)もそういう意味があるようです。

 

三島の玉川の三島鴨神社は薬師如来が本地仏だとされ、茨田堤(まむたのつつみ)を築くにあたって、淀川鎮守の神社として仁徳天皇(蘇我倉山田石川麻呂)=大山祇神が建てたのが始まりとされます。

 

茨田堤は、瓢箪(お稲荷さん)のお陰で人柱にならなくてすんだ茨田衫子(まむたのころものこ)の話があり、人柱になった武蔵の強頸(こわくび)が天武天皇を表しているのに対して、皇極天皇と習合した持統天皇を表しているのだと思います。

 

この神社で恵比寿さん(藤原鎌足)が鴨氏の祖神として祀られるのは、小野氏の支流であるとされる柿本人麻呂が、壬申の乱で処刑された藤原鎌足の子孫である中臣金(なかとみのかね)の一族に持統天皇の鴨氏の女性を嫁がせて生まれた氏族だからだと私は思います。

 

小野妹子の子の小野富人が建てた薬師如来を本尊とする霊山寺(りょうせんじ)の由緒では、小野富人は壬申の乱に関与した為、弘文元年(672)に右大臣の官を辞し、このお寺のある登美山に閉居したとされています。

 

しかし、実際にこの時代に右大臣だったのは処刑された中臣金で、壬申の乱で歴史が改竄されたのだはないかという憶測も生まれています。

 

そこから推測されるのは、小野氏は中臣氏を中心に置く為の氏族だったのかもしれず、茨田(まむた)にはイエス・キリストの「茨の冠」(いばらのかんむり)の意味があり、茨木の阿武山古墳で「大織冠」(たいしょっかん)が発見され、藤原鎌足のお墓である可能性が高いとされた事からも分かるように、三島鴨神社の恵比寿さんが「鴨」の「冠」(先祖)だという事を後付けで加えたのだと思います。

 

天智天皇の時代には最高位だった「大織冠」が、天武天皇の時代には「茨の冠」だったという事を象徴しているのだと私は思います。

 

柿本人麻呂が島根県の石見の鴨山(鴨島)で亡くなったとされるのも、三嶋大社や賀茂神社を念頭に置いて創られた逸話だと思います。

 

和歌山県太地町(たいじちょう)で平維盛が「太刀」を落とした逸話や、この町で恵比寿さんや金毘羅さんが祀られる理由も、「刀」が藤原鎌足や皇極天皇を表しているからだと思います。

 

絹織物が、「西」(公家)の西陣(にしじん)に対して「東」(武家)の桐生(きりゅう)と呼ばれるように、桐生市が上毛国(かみけのくに)と「毛」で呼ばれたのは「毛」が推古天皇の「尾」を表す持統天皇の「藻」(も)で、「兎角亀毛」(とかくきもう)の兎角(とかく)の「角」(つの)の方が八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)と、本来は持統天皇(旧 神功皇后)の「角」であったものを皇極天皇(新 神功皇后)の「角」に変える為に、出雲国(いずものくに)の「三身」(みつみ)の「綱」を掛けて国を引き寄せて縫い合わせたという出雲国風土記の国引き神話を付け加えて飯綱権現(お稲荷さん)で統一したのが真相だと私は思います。

 

柿本人麻呂の妻である依羅娘子(よさみのおとめ)は摂津国大依羅郷や河内国丹比郡依羅郷などの出身の依羅氏だと思われ、新撰姓氏録によると日下部氏(くさかべし)と同族とされ、神功皇后の新羅征討の際に住吉三神(藤原鎌足)を祀った大依羅神社(おおよさみじんじゃ)の神主が衣羅吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)という人物で、現在は消失してしまっていますが朝廷の直轄領の屯倉があり、農業の灌漑用のため池として造られた「衣網池」(よさみいけ)が名前の由来のようです。

 

堺市の僧である行基が山梨県の大善寺で「葡萄」の栽培を始める以前は、大阪が「葡萄」の産地だった可能性もあると私は思います。

 

「葡萄」はイエス・キリストの「血」を象徴すると共に、エフライム族(蘇我氏)のシンボルでもあり、山梨県は狭穂彦王(天武天皇)の子孫である日下部氏の移り住んだ土地になります。

 

おそらく、阿弥陀如来の「阿弥陀」(あみだ)と「網田」(あみだ)を関連付けて、持統天皇を皇極天皇に集合させる目的で平安時代以降に後付けで創られた由緒だと私は思います。

 

柿本人麻呂の歌に登場する「角」を表す島根県石見の都野津(つのづ)には都野津大年神社(つのづおおとしじんじゃ)があります。

 

この神社の御祭神は男の神様で表される時もあるのですが、一般的には恵方巻で春の方角を表す女神とされ、奈良の柿の産地である御所市の高鴨神社(上鴨社)、葛木御歳神社(中鴨社)、鴨都波神社(下鴨社)のうちの中鴨社の御祭神と同じで、元々は持統天皇を表す女神でしたが、葛城氏を表す皇極天皇に入れ替わっているようです。

 

ここの鴨神社で祀られている神様も、三嶋大社で祀られている神様と構図は同じで、上の阿遅鋤高日子根神(蘇我倉山田石川麻呂)、下の事代主神(藤原鎌足)で、真ん中の大年神(持統天皇or皇極天皇)がいるかいないかの違いです。

 

三嶋大社系の神社の新紋は「桐紋」と、「隅切り角に三の字紋」が多く、菱形の四隅の「角」を切ったような形なのでこう呼ばれます。

 

形としては八角形で、天皇のお墓が基本的に八角墳であったり、八咫鏡や、八咫烏、八尋鰐など「八」が好まれる理由も、こういうことと関係しているのかもしれません。

 

八角形は猿田彦大神(藤原鎌足)のシンボルでもあり、「角」(上)の無い「平ら」な比良明神(ひらみょうじん)を象徴する形でもあるようです。

 

「兎角」が勾玉の聖地の出雲大社の島根県、「亀毛」が絹の聖地の桐生市の群馬県、「角」が「頭」で、「毛」が「尾」なので、持統天皇の「上」は群馬県ではなく、島根県になるようです。

 

パンの耳、お札の耳など、「耳」は「隅」を表すので「耳無山」は「隅無山」とも言えそうです。

隅切り角に三の字紋

天逆鉾(あまのさかほこ)など、持統天皇が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)である天武天皇の妻という側面を表す時には「尾」(お)ではなく、「逆さ」の「佐」(さ)が強調されるようです。

 

死の世界を「鏡」に映る生の世界の「逆さ」の世界だとして「逆さ事」(さかさごと)と呼ばれる風習があります。

 

故人にお供えするご飯に「箸」(はし)を突き立てる「一膳飯」(いちぜんめし)や、枕元の屛風を「逆さ」にしたり、帷子(かたびら)の「死に装束」(しにしょうぞく)の襟を左前にしたり、故人の使用していた茶碗(聖杯)を割ったりする風習です。

 

天照大神と素戔嗚尊が誓約を交わして宗像三女神を生んだ天橋立(あまのはしだて)で小野小町が股のぞきをして「逆さ」の風景を楽しんだという伝承も「橋」が異世界を繋ぐ役割を担っているからだと思います。

 

「箸」を使用して「境」(さかい)を表すのは「箸」が聖徳太子が日本に広めたもので、天照大神(織姫)と素戔嗚尊(彦星)の天の川の「橋」の意味もあるからだと思います。

 

聖徳太子の「橋」は、称徳天皇(しょうとくてんのう)までの皇室の家系と、それ以降の皇室の家系を繋ぐものです。

 

浄土宗では「一膳飯」の「箸」を十字にしたり、南無阿弥陀仏の念仏を十回唱えたり、イエス・キリストの十字架を強調して「境」を行うことが定着していたりするようです。

 

10月の古名の神無月(かんなづき)は神奈川の「金」(かな)が由来だと私は思いますが、上下が無い上無月(かんなづき)の意味が根底にあるのだと思います。

 

群馬、埼玉、長野の県境の三国山を水源とする神流川(かんながわ)の上流一帯は愛宕神社の秩父など金鉱脈があり、逆巻の滝の滝壺の深い水の底には金が眠っているとも言われているようですが、この川は元々は神野川(かみのがわ)と呼ばれていたようで、相模川の支流でもあり、神無月の意味を含ませてこの名前が付けられたのかもしれません。

 

神奈川が「上無川」(かながわ)と書かれたりするのは「上」の水源が分からないからとか言われたりもしますが、箱根権現の物部氏、秦氏、蘇我氏の三氏族が「平等」で、阿弥陀如来(トマス)の別名が「平等」を悟った「平等覚」(びょうどうかく)のように、「上」の無い「平坂」(ひらさか)で、「神」を「上」に置くカトリックとの一番の違いを表しているのだと思います。

 

「草木成仏論」(そうもくじょうぶつろん)や、「如来蔵思想」(にょらいぞうしそう)、「本覚思想」(ほんがくしそう)など、全て「平等」を根底に生まれた思想で、その核となるのが「神」(仏)と「人」が本来は一つだという思想です。

 

「十」(とお)は「刀」(とほ)で、イエス・キリストの「十字架」を表す重要な月だというわけです。

 

武家政権が築いた「東京」(とうきょう)は「刀京」(とうきょう)で、「素戔嗚尊(天武天皇)の都」の意味があるようですが、「東」(あづま)というもう一つの読み方があり、橘嘉智子と共に推古天皇を表す乙姫様となった持統天皇の「吾妻」(あづま)という意味が本来の意味なのかもしれません。

 

落語で物語の結末を「落ち」とか「下げ」と言いますが、私は長谷寺の北にある「まほろば湖」の湖の底に眠る天落神六社権現(あまのおちがみろくしゃごんげん)が弁財天の事だと思っています。

 

上方落語(かみがたらくご)という言葉が示すように東京より大阪を上(かみ)にしているのは、天皇が京都にお住まいだったからだと説明されたりしますが、「弟橘姫」の物語を知っていれば、「吾妻」(東)が「下げ」(結末)に当たるので「倭姫」(西)は「上げ」なのだと分かります。

 

面白いものだけが大坂から東京に下って、面白くないものは下らないので、「吾妻」は西から登ったお日様が東に下った面白い「逆さ」の話という事になります。

 

「とほかみえみため」の「えみため」は「笑い玉(たま)え」です。

 

芸能の神である天細女(あめのうずめ)が陰部を人々に見せて「笑い」を起こして天岩戸を開いた「落ち」になります。

 

カトリックの「神」の「聖」(せい)ではなく、下品ですが「人間」臭い「性」(せい)が「福」(ふく)を呼ぶという事だと思います。

 

天細女が「お多福」(おたふく)と言われる所以です。

 

「とほ(刀)かみ(鏡)たま(玉)えみ(笑み)」ではなく、「とほ(刀)かみ(鏡)えみ(笑み)ため(玉)」と、「刀」「鏡」の二つと、「玉」の間に「笑み」を入れているのは「玉」だけを「笑み」で切り離す意味があるのかもしれません。

 

「笑み」(えみ)の逆さ言葉が「三重」(みえ)で、「笑う」(わらう)の逆さ言葉が「浦和」(うらわ)になります。

 

埼玉県浦和市の調神社(つきじんじゃ)は兎の神社として有名ですが、「月」(つき)の字が「調」(つき)になっていて貢物(みつぎもの)の「貢」(つき)を表すようで、「三月」(みつき)の意味があるのかもしれません。

 

調神社の七不思議として「鳥居」が無い神社だったり、「松」が無い神社と言われ、境内に日蓮聖人が駒を繋いだとされる「欅」(けやき)や、魚を放すと何故か魚の目が「片目」になると言われる「瓢箪池」(ひょうたんいけ)と呼ばれた池があったと言われます。

 

その外には蝿(蘇我氏)や蚊(秦氏)がいないというものもあり、物部氏の神社になっているという意味なのかもしれませんが、「瓢箪」は伊勢神宮の「内宮」(左目)と「外宮」(右目)が繋がっている状態を表しているので、元々は両方の神社だったのが、片側だけの神社になったという意味が含まれているんだと思います。

 

元々は「内宮」が秦氏で「外宮」が物部氏でしたが、現在は「内宮」が物部氏で「外宮」が秦氏になっていて、そこに天武天皇の意味が加えられたいると思います。

 

本来は伊弉諾命(物部氏)と伊弉冉命(秦氏)の夫婦が揃って両目になるところ、千曳石(ちびきいし)を間に置いて伊弉冉命(秦氏)と縁を切ったので片目になったのだと思います。

 

「欅」(けやき)は「槻」(つき)とも呼ばれ、この木で毘沙門天が彫られたりする事が多いので天武天皇を表す木で、秦氏を表す「外宮」が天武天皇の「食料」と一つにされているのかもしれないです。

 

私は天武天皇は「鏡」を卑弥呼に贈った魏(ぎ)の曹叡の子、文帝の末裔で、旧約聖書で王の食事を彩るオリーブがシンボルのヤコブの8番目の子のアシェル族だと思っています。

 

イエス・キリストが再び現れて降り立つ山がオリーブ山だと言われる事から、橄欖石(かんらんせき)=オリーブ石(ペリドット)の山である大江山の「鬼」の酒吞童子(しゅてんどうじ)は天武天皇の事を念頭に置いて創作された伝説だと思われます。

 

つまり、内宮、外宮、天岩戸の元神社が揃っている大江山は「八咫鏡」の中心部だという事です。

 

「大和は国のまほろば」と言ったヤマトタケルの言葉も、「まほろば」の「ろば」が古典学者が訳した「真に素晴らしいところ」という意味ではなく、私は、そのまんまの「ろば」が正しい解釈だと思っています。

 

「大和の国は真のロバ」って、「ロバ」が日本に出て来るのが唐突すぎて困惑するかもしれませんが、「ロバ」はイエス・キリストの選んだ本当の「乗り物」であり、日本という国の偽りのない意味を「持統天皇」が活躍した時代の「奈良」に重ねたのだと思います。

 

「ロバ」は旧約聖書ではイシュマエル人(アラブ人)を指し、ヤコブの兄でエジプト人の祖である「エサウ」の意味もあります。

 

神様から恩寵を受けるはずの民族だったのですが弟のヤコブにより、その地位を奪われた氏族です。

 

ヤコブの11番目の息子のヨセフは兄弟から妬まれて井戸に落とされてイシュマエル人に売り飛ばされますが、夢から未来を預言する能力を買われてエジプトの宰相の地位まで登り詰め、ヤコブ一家はエジプトのヨセフの世話になって生活する形となり、結局、エサウに頭が上がらない状況になってしまいます。

 

ヨセフのシンボルは天神の「牛」で十一面観音菩薩になります。

 

このヨセフの息子がエフライム(蘇我氏)とマナセ(秦氏)です。

 

北イスラエル王国のリーダーの親で、エサウのエジプトと深く結び付いていた人物になります。

 

ダン(物部氏)の「蛇」もまたエサウと深く結び付いていて、「牛」と「蛇」は南ユダ王国からは悪魔の象徴のように嫌われます。

 

北イスラエル王国は「牛」と「蛇」を信仰していたので罰が当たってアッシリア人に滅ぼされてアッシリア人との混血のサマリア人が生まれます。

 

姥捨て山の伝説のように親を大切にしなさいという教訓が天神の「牛」という事のようです。

 

この為、蘇我氏や秦氏の氏族の祖を辿ると、最終的には「孝」という字が付く天皇に行き着くようになっています。

 

モーセがアロンの杖を使って海を割ってエジプトを脱出して必死でエサウ(ロバ)からの決別を果たそうとしたのも、兄を悪者とするカイン(エサウ)とアベル(ヤコブ)の物語を創世記に組み込んだのも、ヤコブの子孫だけが神様の恩寵を独り占めする為の努力だったのかもしれません。

 

モーセが葦の船に乗って川に流されたように、日本では恵比寿さんが大山祇神(おおやまつみのかみ)として葦の船に乗って流され「原罪」の旧約聖書を表し、咎なくして死んだ新約聖書のイエス・キリストを迦具土神として大山咋神(おおやまくいのかみ)の「救済」に充てたのだと思います。

 

私は推古天皇と同族だったと思われる蘇我倉山田石川麻呂は本当は「牛」ではなく「ロバ」がシンボルのイッサカル族だと思っています。

 

持統天皇はその孫に当たるので「ロバ」だという事です。

 

因みに皇極天皇の葛城氏は「船」がシンボルのゼブルン族だと私は思います。

 

ゼブルンはヤコブの10番目の子供で、十字架の「十」の意味とも繋がるので、相模川を桂川と名前を変えて持統天皇に皇極天皇を被せる事は好都合だったのだと思います。

 

相模国風土記によると「この国の杉の木をとりて舟を作るに、足の軽きこと他の材にて作れる舟に異なり。よりて足軽山(あしがらやま)と名付けたり」と書かれています。

 

金太郎の足柄山(あしがらやま)が足軽山から来ているという事です。

 

相模が伊豆、熊野と並ぶ造船国家で、「杉」はお稲荷さんのシンボルであり、「軽」(かる)は天武天皇と持統天皇の孫であった「軽皇子」(かるのみこ)=文武天皇に馬から降りた人間の足を付けて「騎士」ではない「武士」を表したのだと思います。

 

「馬」(天武天皇や蘇我氏)は救世主の乗り物ではないという事です。

 

「小馬」(駒)である「ロバ」が救世主の乗り物だという事です。

 

ヤマトタケルの最後が「足」を「三重」(みえ)に折り曲げて亡くなったという事は、最終的には「六」(亀の武蔵)のヤマトタケル(健皇子)より、「三」(蛇の相模)の弟橘姫(持統天皇)の方が強かったという事のようです。

 

「亀」の上に「狐」が乗っているのが妙見菩薩(みょうけんぼさつ)で、「三狐」(みけつね)が皇極天皇を新しいリーダーとする持統天皇を含む宗像三女神です。

 

イエス・キリストの聖杯の「楢」(なら)の女神です。

 

イッサカルは北イスラエル王国と南ユダ王国の間に伏せて両国の橋渡しをする事が予言されている氏族です。

 

ヤコブの井戸と同じ縁結びの象徴です。

 

エサウのエジプトも、サマリア人も、南ユダ王国のユダヤ人からは嫌われ、避けられる存在でしたが、「ロバ」はそれらの氏族を象徴する動物で、イエス・キリストの「隣人愛」を体現した動物だったようです。

 

因みに九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)は黒龍大神(くずりゅうおおかみ)で、枯れた松を表すようですが、雨を降らす「黒馬」と同じで推古天皇と習合した天武天皇や持統天皇を意味するのかもしれません。

 

三鈷の松は持統天皇、小松は藤原不比等、松尾は文武天皇(軽皇子)、高松は藤原不比等の助言を聞き入れて皇統を継ぐ権利がありながら文武天皇に皇位を譲った忍壁皇子(おさかべのみこ)です。

 

忍壁皇子は天智天皇系ではなく、天武天皇系ですが、母親が宍人カヂ媛娘(ししひとのかぢひめのいらつめ)で、おそらく、蘇我倉山田石川麻呂と同族の女性で、天智天皇の子孫や血縁を尊重したという事で松ファミリーに加えられたのだと思います。

 

高松塚古墳の高松も、高松市の金刀比羅宮の王仁(わに)の「船」を意味している可能性があると思います。

 

高松塚古墳は四方の壁に四神が描かれていますが、南の「鳳凰」が無くなっていて、盗掘で壊されたのか、詳しい原因が分かっていません。

 

蘇我馬子の墓だとされる石舞台古墳も、何故か南の壁が無く、ここから古墳の中部に入る事が出来るようになっています。

 

浄土教の南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の「南無」(なむ)は「ナマス」(礼拝)の意味だと言われていますが、「鳳凰が無い」という意味で、高松塚古墳も石舞台古墳も平安時代以降に故意に奈良を表す「南」の壁が壊されたのだと私は思います。

 

御幸森天神宮で祀られる忍坂皇子(おさかのみこ)も、おそらく、忍壁皇子(おさかべのみこ)の事で、玉造の清水谷にあったとされる押坂山(おさかやま)や、玉造稲荷神社で聖徳太子が栗の白木の「箸」を突き立てたという玉作岡(たまつくりのおか)も、元々は同じ山だったのだと思います。

 

玉造の清水谷や、玉造稲荷神社の場所が、大阪城のすぐ南で、あまりにも近い事から、大阪城の場所にその山が存在したのではないかと思います。

 

豊臣秀吉が築いた大阪城は、石山本願寺という蓮如が山科本願寺から移した浄土教の城塞で、それ以前は古墳であり、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)の境内であったと言われています。

 

上町台地と呼ばれる山形の最北端に当たる土地で、淀川と大和川が合流する「渡辺綱」(わたなべつな)の語源だと思われる「渡辺津」(わたなべつ)があった場所です。

 

「津」が「綱」に変わったのは、持統天皇の「津野」(角)が皇極天皇の「綱」に変わったからです。

 

「忍」(押)して出雲国を造ったのではなく、「綱」で引いて造ったようです。

 

おそらく、忍壁皇子が藤原氏の言葉に聞く「耳」を持っていたという事で、大阪の最北端の土地を守護する人物として鰐(わに)の「多聞天」(たもんてん)を表していたのだと思います。

 

持統天皇(パールバティー)と宍人カヂ媛娘(ガンガー)は親戚のような関係で、忍壁皇子(クベーラ)が天智天皇(シヴァ)ファミリーに加えられていたという事なのかもしれません。

 

なので、私は忍坂(おさか)が大坂(おおさか)の語源である可能性も充分にあると思います。

 

小(お)が大(おお)になったのは、持統天皇(鴨)から皇極天皇(鰐)にリーダーの立場がバトンタッチされたからです。

 

高御産神(たかみむすびのかみ)は天武天皇の意味が濃いのですが、案外、忍壁皇子や、阿倍御主人(あべのみうし)を象徴する神様の可能性もあるかもしれません。

 

阿倍御主人だと、藤原北家(玄武)と深く結び付いているので忍壁皇子より、さらに濃い血縁という事で藤原氏側からすると好都合になります。

 

四天王寺で祀られる三面大黒天は毘沙門天(天武天皇)と弁財天(持統天皇)と習合した大黒天(蘇我倉山田石川麻呂)の事で、阿倍御主人そのものと言えそうです。

 

勾玉の王様で、出雲大社の王様、そして「西陣」の「亀虎」(キトラ)の王様です。

 

それに対して、「桐生」(きりゅう)の「亀龍」(キリュウ)はヤマトタケルの吾妻鏡(あずまかがみ)となった持統天皇です。

 

「生國魂明神」(いくくにたまみょうじん)(持統天皇や忍壁皇子)が親の代まで遡って「大國魂明神」(おおくにたまみょうじん)(蘇我倉山田石川麻呂)になったという事で、「大國魂明神」は「大国主命」と同神だとされますが、この名を使う時には「勾玉」の持統天皇や忍壁皇子の意味が大きいと私は思います。

 

藤原豊成(ふじわらとよなり)は阿倍御主人の子孫である紫の前を妻に貰い中将姫が生まれます。

 

豊成は豊(お稲荷さん)が完成したという意味になります。

 

八本松は元々は持統天皇の意味だったのでしょうが白龍大神など「白馬」の皇極天皇の意味がかぶせられています。

 

天橋立の松の並木道の景色を昇龍(しょうりゅう)と呼び、股のぞきをして「逆さ」に見る景色を降龍(こうりゅう)と呼びます。

 

降龍は、天(真名井神社)に昇った後の如意宝珠という「玉」を持つ龍だということなので、元々は持統天皇を表す宝龍(ほうりゅう)で法隆寺(ほうりゅうじ)、「宝」(法)は「火」を表す事から火龍(ひりゅう)だったのかもしれず、飛龍(ひりゅう)とも呼ばれます。

 

そして、降龍(こうりゅう)は金刀比羅宮の蛟龍(こうりゅう)で、皇極天皇を表す広隆寺(こうりゅうじ)の意味が加えられたのだと思います。

 

宝珠を持たない昇龍が、元祖の推古天皇になるのか、吉祥天が手に持っているのは宝珠ではなくて桃なのか謎が深まります。

 

三つの勾玉が回転する「三つ巴紋」は推古天皇、持統天皇、皇極天皇の三人なので、いずれかが当てはまれば、細かい事はどっちでもいいのかもしれません。

 

七福神の乗る宝船はおそらく、「金」を表す弁財天の船だったのだろうと思われますが、宝皇女(たからのひめみこ)の異名を持つ皇極天皇の金毘羅さんの船に取って代わられたのだと思います。

 

和同開珎の硬貨が堺市の三原で初めて造られたのも持統天皇の異母妹の元明天皇の時代で、皇極天皇を再び担ぎ上げる以前の時代になります。

 

その時代は「堺」が大坂の中心だったという事です。

 

使われた銅は秩父の愛宕山などから採取されたもののようです。

 

ヤマトタケルが死んで天の川に「橋」を架ける白鳥座の「北十字星」になり、「堺」の鳳神社(おおとりじんじゃ)の「鳳」(おおとり)として祀られるようになります。

 

同じく天の川に「橋」を架ける弟橘姫の「南十字星」は「八幡星」(やんばるぼし)=「森星」(やんばるぼし)と呼ばれ、秦氏を表す射手座の一部である「小鳥」(ことり)となります。

 

飛鳥時代の飛ぶ鳥は「堺」の終わりを表し、金毘羅さんの「船」に取って代わられた結果のようです。

 

「こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州(さんしゅう)那珂の郡(なかのごおり) 象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん) 一度まわれば」
四国名物 後生楽踊り(ごしょらくおどり)を シュラシュシュシュ 踊らにゃ損だよ 夜明けのカラスが 鳴くまで踊ろよ 阿波踊り 一度まわれば」

それでは、帰りましょう。

帰り道にいた、この子が、とても人なつっこい猫で、体をすり寄せて来て、じゃれて来ました。

 

誰かが、いつも餌をあげているのかもしれませんね。

山を降りました。

 

耳成山のもう一つの別名は、菅山(すがやま)です。

 

「菅」(スゲ)は、カヤツリグサ科の草で、水を弾く性質から、「笠」(かさ)や、「蓑」(みの)に用いられました。

 

緑の「菅」(スゲ)は古代の水の禊(みそぎ)の用具だったそうです。

 

カヤツリグサ科の一番大きい種類が「パピルス」です。

 

「紙」の原料としてエジプトで使用され、イスラム教のコーランを書き記した材料にもなります。

 

751年のタラス河畔(かはん)の戦いで唐の製紙法が西方に伝わった事で、「梶の木」の樹皮や、「竹」、「藁」などを使用した「紙」が「パピルス」に取って変わります。

 

中国では「菅」はただの「草」で、「草菅人命」と「粗末」なものの例えとする四字熟語がありますが、日本人は「紙」を「神」として敬う気持ちが強いのかもしれません。

 

キリスト教で、「救世主」を意味する「棕櫚の葉」(しゅろのは)も、フェニキア人が元々、「紙」として使用した「ナツメヤシの葉」の「貝葉」(ばいよう)から始まります。

 

インドでは「多羅(パルミラヤシ)の葉」を使用して「貝多羅葉」(ばいたらよう)とも呼び、ここからチベット密教の「多羅菩薩」(たあらぼさつ)が生まれたのだと思います。

 

「文字」がイエス・キリストだとすると「紙」はマグダラのマリアになります。

 

ペルガモン(現在のトルコにあった都市)では動物の皮をなめして「羊皮紙」(ようひし)と呼ばれる「紙」が作られました。

 

ユダヤ教では、牛、山羊、羊、鹿の皮を使用して聖書が書かれましたが、豚などは使用してはならないというような決まり事がありました。

 

それは「聖なる文字」を書くからという意識があったからで、エジプトの神々を記した「菅」(パピルス)も、ただの「草」ではないようです。

 

学問(文学)の神様の菅原道真の「菅」は、ここから来ているのかもしれないです。

山の前が、池になっていて、この池は、「耳無しの池」と呼ばれます。

 

3人の若者が、縵児(かづらこ)という娘に同時に求愛し、思い悩んだ縵児は、「耳無しの池」に身を投げて死んでしまったそうで、この万葉集の歌は、そのことを歌っているようです。

 

縵児(かづらこ)とは、桂子(かつらこ)のことで、天武天皇と天智天皇の母の皇極天皇を意味するのかもしれません。

 

宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の神功皇后のモデルです。

 

宇美八幡宮(うみはちまんぐう)とか、「宇」(う)の後に「佐」(さ)とか「美」(み)を付けるのは「三」(さ)や「三」(み)を意味して、宗像三女神を念頭に置いているようです。

 

元々は「宇八幡宮」(うまはちまんぐう)で、「馬」(麒麟)を意味したのだと思います。

 

藤原式家の祖である藤原宇合(ふじわらうまかい)は秦氏と姻戚関係になりますが、蘇我氏と秦氏は馬が合うという意味のようです。

 

桂の木は、ワダツミの木とも呼ばれ、海の底には、大綿津見神(おおわだつみのかみ)という海神の宮殿があり、そこの門の前にある泉の辺に桂の木が生えているそうです。

 

大綿津見神は武内宿禰であり、クーデターを起こす際に皇極天皇を天智天皇側に引っ張りこんだ藤原鎌足だと思います。

 

「耳無しの池」に秦氏である桂子が飛び込んだというのは蘇我氏側ではなく物部氏側についたという事を暗示しているのだと思います。

 

貴船神社では、桂の木を、気(木)の産まれる根源、「気生根(きせいこん)」と呼び、樹木の神とされます。

 

気は風であり、空気であり、息であり、キリスト教の「聖霊」に当たります。

 

女王卑弥呼である推古天皇の代わりだった持統天皇と習合する皇極天皇が樹木の神という事です。

 

大綿津見(おおわだつみのかみ)は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の別名ではないかと言われますが、「海」と「山」は天武天皇(海)と天智天皇(山)が基本で、そこに藤原鎌足(海)と蘇我倉山田石川麻呂(山)を被せたのだと思います。

この「耳無しの池」の近くには、「口無しの井戸」と、「目隠しの川」があったそうです。

 

池、井戸、川の三つの水の形態で、三波(みつは)の女神、罔象女神(みつはのめのかみ)という意味のようです。

 

「口無しの井戸」は、おそらく畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)だと思います。

 

源氏物語は声を出さずに黙読するもので、光源氏は源氏蛍を表しているようです。

 

蛍は光って求愛し、鳴かないからです。

 

成虫になってからは求愛行動にだけ専念して、餌を食べないので口がありません。

 

畝尾(うねお)は畝傍(うねび)の傍(び)を尾(お)に変えただけで、都多(つた)はブドウの蔦(つた)で、天武天皇の子孫を表すのだと思います。

 

天武天皇の子孫(狭穂彦王)が造った甲斐国の柏尾山の大善寺ではブドウを持つ薬師如来が有名で、イエス・キリストのシンボルになります。

 

畝尾都多本神社の御神体は、水の無い空井戸です。

 

水の出る「樋口」(ひぐち)の無い井戸です。

 

天香具山(畝尾都多本神社)はこちら

 

「目隠しの川」は「口之倉川」(くちのくらかわ)でしょうか?…

 

昔の人は目が悪い人を目が暗いと言いました。

 

「倉」(くら)を「暗」(くら)と掛けてるのかも…

 

長谷寺(はせでら)の縁起文で、雷神が瀧倉権現神社に祀られていた毘沙門天の宝塔を持ち出し、天に昇ろうとして落ちた場所に天落神六社権現(あまのおちがみろくしゃごんげん)を祀ったというものです。

 

この場所は大和川上流で、昔は長谷川(はせがわ)、更に昔は初瀬川(はつせがわ)と呼ばれた川の流れる場所で、現在は昭和63年完成の初瀬ダム(まほろば湖)のある場所に流れ込む小川が「口之倉川」」です。

 

平家物語は盲目の琵琶法師が声に出して朗読するのが基本で、「蝉丸」(せみまる)が有名です。

 

音を奏でる「音の輪」(音羽)である「宗像三女神」であり、持統天皇を意味するようです。

 

推古天皇は「鞨鼓」、持統天皇は「琵琶」、皇極天皇は「琴」のようです。

 

「音楽」は「愛の歌」と同じ、マグダラのマリアのシンボルです。

 

本居宣長の「もののあわれ」という言葉も「愛」が報われない無常観の源氏物語から生まれた言葉です。

 

「蝉」は求愛にジージーやら、ミンミンやらとうるさく鳴きます。

 

目はあるのですが、壁に当たったりしてひっくり返っているので目が悪いと昔の人は思ったのかもしれません。

 

源氏物語の「蛍」は愛(和)、平家物語の「蝉」は戦(力)を表すようです。

 

安倍文殊院の安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)は天武天皇と持統天皇の子孫なので「梯」(はし)は「橋」(はし)で陸と陸を結ぶ意味があるようです。

 

そして、持統天皇の母は、長谷寺を象徴する蘇我倉山田石川麻呂の娘で遠智娘(おちのいらつめ)になります。

 

天落神六社権現の「落」(おち)は「遠智」(おち)に掛けてあるようです。

 

おそく、「口之倉川」は持統天皇の川の意味合いがあるようで、

 

「耳無しの池」(皇極天皇)、「口無しの井戸」(推古天皇)、「目隠しの川」(持統天皇)となりました。

 

罔象女神(みつはのめのかみ)も、宗像三女神と共に女王卑弥呼の別名です。

 

それでは、謎が解けたので帰りましょう。

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