四天王寺(してんのうじ)

今週は、上本町近鉄さんでお仕事をさせていただきました。

こちらは、上本町近鉄さんの隣の新歌舞伎座です。

ここから南に向かって15分程歩いて、四天王寺に行ってみたいと思います。

この道路は、上町筋と呼ばれ、前方に見えるビルが天王寺駅にある阿倍野ハルカスです。

天王寺という地名は、四天王寺の略称です。

さあ、着きました。

「日本仏法最初四天王寺」と書かれています。

このお寺は、日本に仏教を入れるかどうかで、神道派の物部氏と、仏教派の蘇我氏の宗教対立が起こり、蘇我氏側についた聖徳太子が四天王に願を掛け、戦争に勝たせていただいたら四天王をお祀りするお寺を必ず建てると約束して戦争に勝てたので、この地に建てられたのが起こりとされます。

つまり、仏教が日本に伝わった記念のお寺というわけです。

その為、真言宗の空海や、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞などの僧からも、聖徳太子は仏教の開祖とされました。

四天王とは、四方を守る仏教の守護神で、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、 多聞天(北)の四神のことです。

この四神の中のリーダーが、多聞天で、別名を毘沙門天とも呼びます。

七福神の一人でもあります。

多聞天はインドのヒンドゥー教ではガンジス川のワニの神様であるクベーラで、毘沙門天はインドのヒンドゥー教ではガルーダ(鳳凰)を乗り物とするヴィシュヌという神様で、本来は別の神様ですが、日本では習合して同じ神様とされます。

この門は東門です。

このお寺では、西門が極楽浄土の入口で、正門だそうです。

お釈迦様の居られた天竺が、日本からみて西の方角だった為、西に極楽があるのだと考えられたのかもしれません。

天王寺区の西側は、昔、大阪湾に沈む夕日が美しく見えた丘だということで、夕陽丘と呼ばれます。

浄土教の教えである日想観を修するために藤原家隆(ふじわらのいえたか)が、この地に移り住んで夕陽庵(せきようあん)を設けたのが地名の由来だともされます。

浄土教とは、西方には極楽浄土があって、阿弥陀如来という神様が衆生を救ってくださるという教えです。

聖徳太子によって、仏教は日本に伝わりましたが、大化の改新によって、蘇我氏は滅亡し、再び、神道が主導権を握ったので、神道が朝日を象徴し、仏教が夕日を象徴するといった役割分担が自然に出来たのかもしれません。

四天王寺は、山号を荒陵山(あらはかさん)と呼ぶことから、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もあるそうです。

誰の古墳かは諸説あって謎とされます。

東門を入った所に、朱の鳥居がありました。

亀遊嶋 弁天堂と書かれています。

こちらは、不動明王?のようです。

雀がいました。

桜の花びらを、くちばしでちぎって落としています。

天気が良いので、遊んでいるのでしょうか?

こちらは、亀井堂と書かれています。

死者の供養として経木に戒名を書き、それを、この亀井堂の水に流せば極楽浄土に行けると伝えられているようです。

四天王寺は、593年(推古天皇元)に聖徳太子によって建てられました。  亀卜を行なった女王卑弥呼は、推古天皇のことなので、このお寺も亀と係わりが深いのかもしれません。

遠くに、五重塔と、ハルカスが見えます。

牛王尊 石神堂と書かれています。

四天王のリーダーであった毘沙門天は、天武天皇の血を引く聖武天皇(しょうむてんのう)や称徳天皇(しょうとくてんのう)に信仰され、奈良に東大寺や西大寺が建てられましたが、藤原四兄弟によって天武天皇の血は皇室から排除され、天智天皇と百済の王族(高野新笠)の血が新たな皇室の軸となり、桓武天皇(かんむてんのう)が生まれ、空海を徴用し、仏教が聖徳太子の顕教(けんきょう)から空海の密教(みっきょう)へと移り代わります。

その空海の密教の中心的な仏様が大黒天であり、牛頭天王(ごずてんのう)になります。

大黒天はインドのヒンドゥー教ではシヴァという神様で、シヴァの髪の毛からガンジス川が流れ出ているとされ、ガンジス川の女神であるガンガーが死者の魂を浄化して天国へと導くという神話からインドでは火葬した灰をガンジス川に流します。

多聞天はそのガンガーの使いとなります。

大黒天は不動明王でもあり、大日如来が衆生を教化する為に憤怒の相で現れた仏様です。

天王寺の天王は、毘沙門天王から牛頭天王に意味が変わっていったのだと思われます。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)は密教では普賢延命菩薩(ふげんえんめいぼさつ)と呼ばれ、寿命を延ばす力を持っているとされます。

鳳凰(不死鳥)の代わりであり、復活のイエス・キリストの代わりであり、密教の愛を表す聖天(しょうてん)さんを象徴する菩薩でもあります。

六牙の白象は六波羅蜜(ろくはらみつ)という幸福に生きる為の修行を指し、男女平等の愛を実践する仏様です。

こちらは、金堂と五重塔を囲んだ南側の仁王門と呼ばれる門です。

ここから中には入れないようです。

大師堂です。

弘法と書かれていて、右側に弘法大師 空海(くうかい)の像もあります。

こちらは、浄土真宗の親鸞(しんらん)聖人のようです。

遠くに見える鳥居が、西向きの極楽門に続く「石ノ鳥居」です。

日本三鳥居の一つとされます。

金峯山寺の銅(金)の鳥居、厳島神社の朱丹(木)の鳥居、四天王寺の石の鳥居です。

こちらは、極楽門(西門)の四つの柱にある転法輪(てんぽうりん)と言う仏教のシンボルマークです。

インドの国旗の中央にも使用されています。

お釈迦様の教え(四諦・八正道)が八方に広がるという意味で、この車輪を転がす事は、教えを伝えていくという意味があり、それが極楽浄土への道だということのようです。

 

西側から五重塔や、金堂のある中に入れました。

拝観料は300円でした。

ここから中に入って、上に登れます。

写真は弥勒三尊像(北)で、柱を囲んで薬師三尊像(東)、釈迦三尊像(南)、阿弥陀三尊像(西)が描かれています。

五重塔の頂上には、お釈迦様の仏舎利が納められた舎利搭があり、大阪市内が一望出来るようになっています。

頂上までには、永代供養の庶民の位牌が無数に並んでいました。

こちらが本尊の救世観音菩薩(聖徳太子)と、四天王を祀る金堂です。

写真撮影が禁止と書かれていたので、写真はありませんが、この講堂の中に、十一面観世音菩薩と、阿弥陀如来の像がありました。

暗闇の中、ロウソクの火に照らされた金色の巨大な仏像は迫力がありました。

六時堂と呼ばれるお堂です。

橋の上には石舞台があって、池には亀がたくさんいて亀の池と呼ばれます。

「亀」は「龍」の子供だと言われ、「浦島太郎の物語」は、「亀の恩返し」であり、竜宮城の乙姫様の正体は、甲羅の中に隠れるように天の岩戸に隠れた天照大神(推古天皇)だというわけです。

「甲」は皇極天皇を表し、皇極天皇は「亀」の大人である「龍」というわけです。

推古天皇と関係の深い土地などに「若」(わか)や「小」(こ)という字が付く地名が多いのは、子供である天照大神という意味が含まれているようです。

干支のトップの「子」(ね)は「開花天皇」(かいかてんのう)と「倭迹迹日百襲媛命」(やまとととひももそひめのみこと)を生んだ鬱色謎命(うつしこめのみこと)の子供達という意味になります。

開花天皇は皇極天皇を象徴し、倭迹迹日百襲媛命は推古天皇を象徴します。

鬱色謎命(うつしこめのみこと)の「鬱」(うつ)は宇都宮(うつのみや)の「宇都」(うつ)で、「兎の都」という意味があり、「色謎」(しこめ)は「不細工な女」という意味があります。

また、「兎の都が死んだ」(うつし)「米」(こめ)の神という意味も含ませているようです。

秦氏の神様であり、濁ると太秦(うずまさ)の「太」(うず)になります。

干支の「子」(ね)は本来は「鼠」(ねずみ)という意味ですが、

木の「根」(ね)を表し、「臼」(うす)を打つ方の「杵」(きね)になります。

「臼」(うす)も、「宇都」(うつ)と似た言葉ですが、蘇我氏と物部氏を表す言葉で、「鼠」は「臼」(うす)の下に隠れる子供達という意味があり、こちらも濁ると「太」(うず)になり、両者の見分けが付かなくなります。

鬱色謎命(うつしこめのみこと)と似た名前に伊香色謎命(いかがしこめのみこと)という人物がいますが、こちらは物部氏の祖神で、「伊香」(いかが)とは「斑鳩」(いかるが)と呼ばれる大きな黒い鳥という意味が含まれていると思います。

「斑鳩が死んだ」(いかがし)米の神です。

いかがしは、五十(いか)の荒死(あらし)五十嵐(いがらし)とも書きます。

蘇我氏と集合した大物主命の荒御魂の荒神(こうじん)になります。

「斑鳩」(いかるが)は「怒(いか)る賀(が)」という意味で、河内国の哮ヶ峰(いかるがみね)に天降った饒速日命(にぎはやひのみこと)を象徴します。

哮(いかる)とは、哮(たける)とも読み、饒速日命は日本武尊(やまとたける)である小碓命(おうすのみこと)の兄の大碓命(おおうすのみこと)になります。

「碓」(うす)は「臼」(うす)と同じ意味です。

また、「斑鳩」(いかるが)には「烏賊」(いか)の「賀」(が)という意味も含まれていると思います。

「賀」(が)は秦氏の事で、「烏賊」(いか)は十本足で、十種神宝(とくさのかんだから)を持ち、秦氏十支族を率いた饒速日命(にぎはやひのみこと)を象徴していて、墨を吐いて敵を黒く染めます。

赤い「鳳凰」(ほうおう)を「八咫烏」(やたがらす)という黒い鳥に変えたという事かもしれません。

「烏賊」(いか)を「烏(からす)の賊(ぞく)」と漢字で書くのは、海の表面で「烏賊」が死んだふりをして漂い、「烏」が近づくと足で絡み獲って烏を食べてしまうという中国の伝承から付いたそうです。

「烏賊」に食べられてしまう「烏」(う)は蘇我氏に加担した秦氏を象徴するようです。

四天王寺の象徴である「四」と同じ家紋に四つ目結紋(めゆいもん)という家紋があります。

代表的な氏族に宇多天皇(うだてんのう)から分かれた源氏の佐々木源氏があります。

宇多天皇は没落した当宗氏(まさむねし)の血を引く天皇で、磯城氏(しきし)とおそらく同族で、推古天皇の血筋と思われます。

荒神の別名は「才」(さい)の神です。

小さい事を表す「細」(さい)であり、蚕の食料である桑が死んだ「細」(くわし)でもあり、四角形の賽子(さいころ)の「賽」(さい)や、小銭を表すお賽銭の「賽」(さい)、そして、あの世とこの世を橋渡しをする賽の河原(さいのかわら)の「賽」(さい)になります。

「才」(さい)は「菜」(さい)とも書かれ、「菜」(な)とも読み、推古天皇が活躍した奈良の「奈」(な)であり、「梨」(なし)は「奈」(な)が死ぬという意味で、才の神の死を象徴し、藤原北家閑院流(ふじわらほっけかんいんりゅう)の出身の三条家を祀る梨木神社(なしのきじんじゃ)の「梨」(なし)になり、家紋は伊勢神宮や、住吉大社と同じ「四」を表す唐菱花紋(からはなびしもん)となります。

     四つ目結紋

      唐菱花紋


藤原北家は弁漏王女(むろのおおきみ)の血を引く藤原氏の氏族で、玄武(亀)が象徴となります。

おそらく、弁漏王女(むろのおおきみ)も推古天皇系の血が入った人物だと思われます。

和歌山にある推古天皇を祀る神社だと思われる丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)の「丹生都」(にうつ)は、「二つの兎の都」という意味と、「丹(赤)い兎の都」という二つの意味があるようです。

藤原氏の光明皇后の娘である孝謙天皇(こうけんてんのう)が建てた西大寺(さいだいじ)の「西」(さい)は、大仏で有名な東大寺に対する西(にし)に位置する意味で付いた名前だと思われますが、「才」(さい)という意味も含まれているのかもしれません。

五十嵐(いがらし)は(いがなし)とも読まれます。

極楽浄土の庭に入ってみようと思います。

拝観料は300円でした。

池があって、桜が満開です。

極楽浄土を満喫しました。

最後に大黒天を祀る大黒堂です。

インドのシヴァという神様で、第六天魔王とも言います。

黒という色からも分かるように土の神様で、農耕神の性質があり、ナンディンという白い牛を乗物とします。

日本では、大国主命と習合し、出雲の神様として、死者の国を治めているようです。

仏教の守護神の毘沙門天を崇拝した上杉謙信に対抗して、仏教を嫌う織田信長が名乗ったヒンドゥー教の神様でもあります。

この大黒堂の右側が、戦没者や、被災者の供養をする英霊堂があり、左側には、無縁仏を供養する無縁搭があります。

さらに南側には、水子を供養する地蔵堂もあります。

四天王寺は、どんな身寄りの無い人の遺骨でも受け入れてくださるということで、庶民からは四天王寺さんと親しまれ、人気があるお寺だそうです。

人はいつかは死にます。

どんな人間も死からは逃れられません。

死は本当に汚れなんでしょうか?

お釈迦様は、生老病死の苦悩から人々を救いたいという願いから悟りを開かれました。

蓮の花は、泥の中でも綺麗な花を咲かせます。

このお寺は、死を汚れとして避けることなく、正面から向き合った最初のお寺ということなのかもしれません。

さあ、現世に戻りましょう。

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