輪廻転生(りんねてんせい)という言葉があります。
死んでも、また、生まれ変わって人生を送るという考え方です。
その生まれ変わる先は、人間や、動物から、昆虫や、植物も含めた生き物、全てです。
この考えは、もともとは、インドに古くからあった思想で、ヒンズー教に取り入れられます。
そして、インドで発生した仏教にも、影響を及ぼし、日本にも輸入される形となりました。
だから、輪廻というとブッダの教えだと勘違いされる方もおられますが、実は、ブッダは、輪廻のことは一言も、説いておりません。
さて、この輪廻という思想は、何故、生まれたのでしょう?
ターレスというギリシャの哲学者が、宇宙の根源を「水」という単なる物質で説明しようとしました。
それまでは、聖書でもわかるように、神様が、世界を創造したという考えが常識でした。
まあ、全ての根源が「水」というのは間違いだとしても、「物質」で説明をしようとしたのは革命的な考え方でした。
ここから、あらゆる哲学が生まれて、「物質」で全てを説明しようとする、科学的な、『唯物論』という考え方が育っていきます。
当時の西洋は、キリスト教が政治的な力を持っていたので、キリスト教と争いながら、哲学は発展していきます。
共産主義を生み出した哲学者に、エンゲルスとマルクスという人がいます。
エンゲルスは、神様を生み出した起源は、原始人にあると言います。
原始人は、万物に全て「霊魂」が宿っているというアニミズムを信じています。
だから、木にも、風にも、山にも神が、宿っていて、おろそかにすると、祟りがあるという具合です。
そして、「霊魂」は、不死だと信じていました。
脳という「物質」が、「霊魂」と呼ばれる精神を作り出しているという知識がありませんので、体が滅んでも、「霊魂」は残ると考えていたのです。
原始人にとっては、宇宙は、「霊魂」で、満ち溢れており、しかも、肉体を離れても存在するものなので、生きている時と同じ状態で存在しているものと考えていました。
そして、「霊魂」は、生きている時と同じように、ご飯も食べるし、恋愛もするわけです。
現在、我々がお盆になると、仏壇に、お饅頭や水を供えたりするのは、死んだ人も同じように、ご飯を食べるんだという考え方のなごりなのです。
こうして、死ぬ人が増えてくると、世界は「霊魂」だらけになってきて放置しておくことが具合が悪くなり、お墓が生まれます。
やがて、死んだ「霊魂」が何処に行くのかという事が、みんなの知りたい問題になるのです。
次々に生まれてくる新しい命は、いったい、何処からやってくるのか。
これも、問題になります。
こうした問題が結びついて、「輪廻」という考えが生まれてきます。
「輪廻」という考えは、繰り返すという事です。
死んでしまった「霊魂」が、生まれ変わって、別の人間として、また、この世に現われます。
これで、死んで行く人と、生まれてくる人の「霊魂」の数は一定で、つじつまが合ったという事です。
「輪廻」を取り込んだ仏教では、死んだ「霊魂」が、閻魔大王に会って、生前の行いにより、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、極楽の六通りの世界に、振り分けられ、そこで、次の生まれ変わりの場所を確定するそうです。
行いの悪い人は、虫に生まれ変わるかもしれないということです。
行いの善い人は、再び人間です。
インドには、カースト制度という身分差別がありました。
バラモン(司祭)、クシャトリヤ(王侯貴族)、ヴァイシャ(平民)、スードラ(奴隷)、アチュート(不可蝕民)という五つの階層です。
今は、表面上は、無くなりましたが、差別の意識は以前としてあるそうです。
この、身分制度も、ヒンドゥー教の一部となり輪廻転生で説明されました。
宗教と一緒になっているので、とても複雑です。
その身分に、生まれて来たのは、生前の行いにより決定されたのだと説明されます。
不可蝕民に生まれて来たのは、生前に悪いことをしたからなので、不平を言わず善い行いをしなさいと。
文句を言っていると、今度、生まれてきたら、もっと、ひどい境遇になりますよというわけです。
現代の人からしたら、無茶苦茶な論理です。
だけど、当時の人は「輪廻」の思想を盾に、平然と差別を行っていたのです。
インドで生まれた仏教も、インドでは、ほぼ、消えてなくなります。
ヒンドゥー教のヴィシュヌという神様の、一つの変身した姿として取り込まれ力を失います。
ブッダは、人間も含め、生きとし生けるもの全ての命は、平等で、尊いものだと言いました。
差別している人からしたら、平等では、困るわけです。
そして、ここが、キリスト教とも少し違う所です。
人間だけでなく、虫も、魚も、動物も、生き物、全てが、尊い命だと言いました。
こうして、仏教は、本国より、チベットや、日本なんかで発展する事になりました。
ただし、日本に伝わった仏教は大乗仏教と呼ばれる仏教で、
ヒンドゥー教の世界観を取り込んだ仏教です。
毘盧遮那仏という神様のような存在まで現れます。
ブッダの哲学と、ブッダの弟子達の宗教は分けて考えた方が良いのかもしれません。
悟りとは「輪廻」からの解脱が目的で、ブッダは、心の問題を問いつつも、最後は、「唯物論」に近い考えになっているように私は思います。
諸行無常で、魂も、不変ではないという考えです。
本来のブッダの教えは「輪廻」とは全然違うものですが、葬儀と結び付き、「輪廻」という考え方が庶民に広がりました。
魂が不変であってほしいという人々の願望なのかもしれません。